構成プロセスの困難と、《つながりかた》

臨床社会学ならこう考える 生き延びるための理論と実践

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ずいぶん興奮しながら読んだ。


第3章「現代社会における構築主義の困難」(参照)で、樫村はラカン派の立場から「構築そのものの困難」を論じてくれている*1。 しかし彼女は、構築の問題を「同一化」と「隠喩」に還元してしまう。これでは、フレームに監禁されたまま子どものような遊びを繰り返すしかない。私はここでこそラカンにつまづき、《ジャン・ウリ/ガタリ》を必要としたのだ*2


「同一化と隠喩」ではなく、その都度その場で、権力をうまく生き直すこと。たんに外形的に組み直せばいいのではなくて、内在的分節がそのまま権力の営みであり、自らの内なる構成過程であること。ここのポイントがないから、樫村の話はどうしても「イデオロギーの枠内」に聞こえてしまう。また、「あとがき」で強く感じたが、樫村は、ご自分が維持している左翼系の人間関係について、その《つながりかた》を問題化しようという視点がほぼ全くない。「構築の困難」を話題にできれば、《関係性のあり方》を話題にせざるを得ないはずなのだ、なぜなら私たちは内輪で、分節プロセスのあり方に威圧を加えあっていて、それこそが問題なのだから*3


その貧しさは、本書終盤に登場する《媒介領域 médiation》*4の貧しさにつながる。 私が、単にイデオロギー的に médiation を措定して終われないのはなぜなのか。けっきょくこれは、《自分がどういう体質の権力を生きるか》という問いに重なる。左翼は、自分がイデオロギー的必要性を満たせればそれで満足してしまう。私は、内側から自分の権力が支えられなくなるのだ。これは、単に「心理的」問題にとどまらない。関係のなかで主体構成がどう生きられるかという選択は、そのまま集団的な《権力》の体質だからだ。左翼は、イデオロギー的な全体支配をどうしても抜けきれない。一つひとつの話題への反論はあり得ても、《権力はイデオロギー的にその場を支配しなければならない》という、権力の構図そのものの大前提だけはどうしても崩そうとしない。問題はその、時間的要因を含んだ権力の体質のことなのだ。


私はこの本は、ほぼ全ページが書き込みと付箋だらけになった。しかし焦点は、第3章のジュディス・バトラー批判にある。本書に描かれる論題の全ては、この「構成の困難」の扱いにかかっている*5

    • たとえば東浩紀は、「一挙に与えられるシニフィアンの全体性」(否定神学)に対して、情報の断片性(郵便的脱構築)を言うのだが*6、「断片」を論じる東には、構成プロセスの困難が見られない。というよりむしろ東においては、その揺らぎのなさが際立っている。特異なプロセスを生きざるを得ないというスタイル選択は終わっていて、あとはそれでどこまでやれるかという話でしかない。「プロセスの困難」自体が臨床的に話題になることが全くないのだ。それゆえ東においても、至近距離の人間関係(そのスタイル)の政治性は、問い直されることがない。
    • やろうとしている仕事が、人のつながりを作る(仕事のスタイルが、つながりのスタイルになる)。 いちど確立された《つながり方=仕事のしかた》は、問い直されることがほとんどない。


*1:以前には斎藤環が、上野千鶴子の「脱アイデンティティ」に対し、「アイデンティティをうまく生きられないのが問題なのに」と反論していた(大意)。 しかしこれも、やはりコスプレ的なアイデンティティを肯定することにしかなっていないように思う。想定されている構築が貧しすぎるのだ。

*2:そして今はさらに、集団的意思決定の問題に直面している。

*3:あなたの問題意識の生態は、あなたの人間関係が表現している面がある。

*4:「即時性 immédiatété を中断する媒介領域 médiation」(p.296)

*5:斎藤環にも言えることだが、ラカン派は「社会の心理学化」を批判しつつ、ご自分たちはプロセスを隠喩の営みとして描いて終わっている。これでは、隠喩活動そのものが監禁され、嗜癖化するではないか。

*6:存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて