アンリ・マルディネ(Henri Maldiney)

    • 「出来事としての治療――自分の先端に立ちつつ世界に存在する」(P.シャラザック+J.ブーデリック/橘宗吾*1訳、『季刊思潮』第3号(1989年)掲載)

11月24日、福井県仁愛大学にお邪魔したのですが、そこで三脇康生氏からいただいたアンリ・マルディネ(Henri Maldiney)のインタビューがとても印象的です。集団的意思決定の問題は残るのですが、その前に考えておくべきこと。日本語ではまだほとんど読めない書き手のようなので、以下で一部を引用してみます(強調は全て引用者)。 引用囲いの外にあるのは、私のメモです。

 ここに訳出したインタヴュー記事は、精神科医ジャン-ピエール・クラン(Jean-Pierre Klein)の主催する季刊誌『芸術と治療(Art et Thérapie)』の求めに応じて、アンリ・マルディネが、二人の弟子、ピエール・シャラザック(Pierre Charazac)とジョエル・ブーデリック(Joel Bouderlique)を聞き手に、自らの思想を直截に語ったところを、後二者が録音し、「対話」の形にまとめたものである。
 アンリ・マルディネ(Henri Maldiney)は、1912年に生まれ、同世代では最年少で(フランスの)教授資格を取った。ベルギーのガン高等学院の教授を務めたあと、リヨン第三大学の教授として、1982年に退官するまで哲学、美学、心理学などを講じ、現在では同大学名誉教授となっている。また、ルートヴィヒ・ビンスワンガーの若い友人でもあり、フランスに現存在分析を導入したのは、このマルディネである。 (訳者あとがき)

 アンリ・マルディネは、発生状態にある言葉を隠滅するものを全く信用せず、また、そういうものとしての散文に警戒を怠らない。尤もらしい理論や概念に囚われることなく、自らの思想に関わり、それを基礎づけるものと、活発な応答を続けている。(以下略、ピエール・シャラザック) 【※参照:amazon.frでの著作



■■■以下、インタビュー記事より■■■




 相手の身振りやテンポに順に調子を合わせるのはやめにして、相手に対して抵抗するのです。 (略) そうしないと、お互いに他人だということが分からないのです。あなたがさっき、他性の概念に触れたのも尤もなことで、これは根本的な概念なのです。というのも、他性とは、存在しているものの次元そのものですから。これに対して、完全な同一状態、つまり、一方が他方にとって完全に透明な(=無制限に透過的な)状態では、後者は前者がいることに気づきもせずに、前者を通り抜けてゆくことでしょう。

耐えられないことと活性化させることは踵を接している

 事物の基盤――かたくなに押し黙って、わけもなく耐えている、事物の基盤で、これをハイデガーは「土」と名づけているわけですが、芸術では、この基盤を、それ自体であるがままに現わすには、まさしく現れることに反対するもの、つまり、それ自身のうちに引きこもり、閉じこもって、隠れようとするもの、これを現わさなければならないのです。

事物の開示と精神の開示が同時に起こる

 極めて重要な点を指摘しておきましょう。患者は絵を描いているとき、たいてい素材には興味を示しません。順序立てて、絵具の性格や色に注意を向けてやれば、そのときはまた別で、色や絵具が実際に、患者のあり方の一部になるのですが。だから、芸術家が、素材の様々な性質、言い換えれば、もろもろの抵抗に敏感なのに対して、患者の方はそうではないのです。よく覚えているのですが、ヴィナティエ*2のある女性患者が、絵を描く前に私にこう言ったのです。「あら、私、これから描くもの、よく知ってるわよ」。彼女は開始の合図を待っていました。そして一分半後には、頭の中にあったものを、しかも思っていた通りの色で仕上げてしまいました。彼女は一歩も進まず、何も変わらなかったのです。以上が第一の点です。つまり、素材からの抵抗が全然感じられず、意のままになるようではだめなのです

素材の抵抗がなくなたっとき、ナルシシズムの自閉が起こる。
私が体験したことはまだ私にとってよく解っていない。 だから素材化する*3
「自分にはわかっている」と事後的に思い込むのは商品の狂気。

 ルートヴィヒ・ビンスワンガーはマニエリスムを論じて、分裂病者に特有の行き詰まった実存の形をしていると述べていますが、そのマニエリスムでもまた、完全に内閉的な形ができているのです。マニエリスムの本質とはポーズですが、病人は、閉鎖空間に自ら閉じこもって、ポーズをとり、そのポーズを保ちます。病人は、自分自身という人物を演じる俳優であると同時に、俳優を事とする人物なのです。これによって分かるのは、病人には、世界に向かって自分を超出することができない、ということです。 (略)
 美的と形容される、数多くの活動には、自閉的な側面が確かにあります。芸術家としての資質はさておき、芸術家と見なされている者から自称芸術家に至るまで、ひっくるめて言うなら、きわめて多くの者が自閉的な行為に耽っています。言い換えれば、自分を超出することがない。実存ということの本来の意味である、賭け、冒険、出立がどこにも見当たらないのです。実存するとは、およそ、自分の望みを果たすために自分が何者なのかを知ることではないというのに。 (略)
 制度をなぞって組織された、反復的なやり方、つまり、閉鎖的なやり方で、活動が制約されている場合には、皆、その活動に範囲にとどまって、断絶と超出の機会をことごとく失ってしまうのです。

一人で考えていれば超出できるということではない。
薬物は、超出の補助。 方法論として固定すれば、それじたいが自己監禁になる*4

 言葉とはおよそ反復も予見も不可能な、一瞬一瞬の事柄だということで、 (略) これに対して、言語(≒国語)のほうは制度化された、反復可能な事柄なのです。ところが、今日では、化け物じみた創造を通じて、制度化された言説という考えが浮かび上がってきました。これは、言葉と言語を混交し、破壊するものです。どこへ行っても制度化された言説にぶつかります。私たちが耳にするものの大半は、制度化された、既成の言説から成っていて、こうした言説では、何かを問題にしているのはうわべだけで、あらかじめ解答が用意されているのです。もちろん、医学にも言説があり、治療に関わる場合もあるはずですが、おそらく、この言説も同じく制度化されているのです。すなわち、馴れ合いの言説なのです。分野を問わず、このような言説は皆、ハイデガーの言うおしゃべり(Gerede)に帰着します。つまり、何が問題になっているのかは分からないけれど、ただ、話しているということは分かる、といった類いです。
 また、言語活動を能記と所記の関係にのみ限定して、指示対象、すなわち、問題になっている事柄を、なおざりにするといった誤った態度が、今日しばしば見受けられますが、このような態度の行き着くところ、言葉はますます閉鎖的になり、言うなれば、出口のないまま、途切れることなく循環する表象と化するのです。

DSM-IV、医療主義、学問的紋切り型、など
「そんな話をしたって、苦しさに取り組んだことにならない」



場所と臨床

 繰り返せないとは、まさしく出来事だということです。言い換えるなら、一つ一つの出来事は単独に起こるのです。だから、たんなる結果にすぎないものは出来事の名に値しません。何も起こらなかったということです。出来事は必ず断絶によってもたらされます。鎖が断ち切られ、出来事が生じるのです。これこそ、治療者を激しく揺さぶるものなのです。たとえば、患者と話している最中、ある言葉をきっかけにして、自分のうちで突然何かが撥けるのです。このような出来事は患者にも起こります。問題はすべて、出来事が立ち消えにならないように、その出来事に開かれた場所を設けてやることにかかっています。

social + work」という、すさまじい含みをもった言い方が、あまりにも貧しい内容にとどまっている。
たとえば芸術を、《social work》の一部と考えること。

 もちろん、治療には一定の規則があって、その規則のおかげで、ミスを犯さずにすみ、特徴のある側面には目を向けることができます。けれども、こうした規則には治療を規制する働きしかありません。治療態度そのものを構成することはできないのです。そんな理由で、治療関係は、関係そのものをその都度作り出せる人のみが取り結べる関係の一つだと思います。そして、このような場所でこそ、患者は、自分自身が治療者に現前しているのを感じることができるのです。

「自分は治療者なのだ」という威圧とは真逆の努力。
態度そのものに臨床の工夫がある(社会性=臨床性)。

――出来事がなければ、危険がなければ、真の治療とは言えないのですか。
 危機とは、人間が、実存するか、それとも消え去るかを決する瞬間のことです。ところが、精神病者は危機を経験しません。一度だけ経験した危機が原因となって発病し、それ以後ずっと同じ危機を繰り返しているのです。したがって、現実の危機を――最初の危機の反復ではなく、別の危機を、引き起こすことが問題なのです。

危機のパターンを固定することで安定をつくりだす。


「精神医療は牧畜業だ」(武見太郎
マニュアルへの従事ではなく、プロセスに全権が与えられ、そこに治療者が単独的に向き合っているという状況が要る。このためには、治療者が制度の下僕であることをやめていなければならない。



接触と自我

 私が思うには、〈自我〉ヴェクトルの領域に危機が生じたときこそ、最も危険であり、おそらくは最も効果的なのです。危険のあるところ、救いの道も開けているのです。
 思い出すのは、こうした転機の一つをプルーター医師が取り上げていたことです。彼は数カ月来、何の成果も得られないまま、一人の分裂病者と話をしていたのですが、ある時ふと、《auseinandersprechen》(「お互いに自分〔の考え〕を開陳し合う」)という語が、どちらからともなく口にされたのです。そこで、プルーター医師は尋ねました。 《Was ist auseinandersprechen?》(「お互いに自分〔の考え〕を開陳し合うとは、どういうことでしょうか。」) すると、二人は、対話についての対話に引き込まれてしまっていたのです。 すなわち、言葉について――お互いに自分〔の考え〕を開陳し合うこととしての言葉について、話し合い始めていたのです。その時からの進歩は目覚ましいものでした。この患者は三週間ですっかり変わってしまったのです。以上が危機の一例です。 《auseinandersprechen》、これは〈接触〉ヴェクトルの領域にも〈自我〉ヴェクトルの領域にも属しています。 この二つのヴェクトルには最終的な決定力があるのです。

苦しんでいる人に好まれる言説には、〈接触〉要因と〈自我〉要因がある。
だからこそ、臨床的配慮が必要になる。
臨床的配慮がなければ、破壊的煽動でしかない*5



いちばん重要な問題

 なにしろ、インフレーション以上に危険なものはありませんから。インフレーションとは、破裂であり、解体であり、崩壊なのです。ゾンディは言っています。何らかの活動乃至は作業によってインフレーションを統合しなければ、すなわち、彼の言う向働性の次元――摂取あるいは否定――がインフレーションに対応していなければ、インフレーションの結果、発狂することになる、と。

私が斎藤環氏の講演会で質問しようとしておかしくなったことは、「ナルシシズムのインフレが起きていた」と説明できる。斎藤氏のやり方は、インフレが起きやすいのだ。――これは、「臨床的にまずい影響をもってしまう知的スタイルだ」ということ。
この指摘に斎藤氏はお怒りになるだろうが、私としてもこれは譲歩できない。
声のプロセスが内発的に組織されることと、集団的な意思決定とは、臨床の問題として絡み合っている。



努力のフレーム固定を避ける

――患者がおのずから心を開くような条件が具体的につかめるよう、幾つかの表現技法についてもう少し詳しく話していただけますか。
 まず、絵画に関して言えば、(略) 絵やデッサンを描かせる際に、紙を机に置いては駄目で、壁に張るか留めるかしなくてはなりません。これは、描いている人と紙の間に、一種の往復運動が生じるのを避けるためです。というのも、机に置いた場合、描き手が、机との間にできた自分の場所を囲い込んで、そこに閉じこもってしまうからです。(略) これに対して、紙を壁に留めた場合には、前進したり、後退したり、からだ全体で距離をとることができます。起動力(=発動性)が一段と発揮(=現働化)され、手や腕の動きは一層豊かなものになって、からだ全体を律し、さらにはそれを超えて行くのです。そこで、より開放的な姿勢を取ることになり、おかげで自分だけの活動に閉じこもってしまう虞れがなくなるのです。

分析モデルをもてあそんでいるだけでは、こういう発想は出てこない。
臨床的配慮には、「頭がいいかどうか」ののっぺりした競争とは別の配慮がある。
現在は、知的生産パターンの硬直した頭の悪さが蔓延している*6。 私はこのことに気づいてから、本がよく読めるようになった。



泣き寝入りの問題としての実存

 だから、「自分の外へ」ということを否応なしに呼び覚ます中心「人物」が必要なのです*7。 そして、結局のところ、ここに問題があるのです。すなわち、本来の意味での現存(presence)、つまり、「自分の先端に立つ姿勢」を実現することが問題なのです。一般的に言って、精神病者にはこれができません。実存についても同じことで、実存(existence)とは本来、「自分の外へ向かう姿勢」を意味していますが、患者がこの「自分の外へ」と向かうように、ただし、それが自分自身の尖端に立つことであるようにする、これが治療の根本的な企図なのです
 言い換えるなら、他人を内閉状態から引っ張り出して、たちどころに外へ向かっているような姿勢を取らせる試みです。およそ目立たないとしても、このように外へ向かっていることこそ、世界に存在する(=世界内存在)ということなのです。世界に存在するために自分の外に出てしまう(=自分ではなくなる)のではなく、自分でありながら世界に存在する。ここに課題があるのです。

ひきこもる人を無理に社会復帰させようとする人を、よく「引き出し屋」と揶揄するが(参照)、統合失調症自閉症についてすら、「引き出し屋」が言えるかどうか。 病いのまどろみにある人を、現実に向けて覚醒させてしまうことは、何と残酷なことなのか…*8
――しかし「自分の尖端に立つ」とは、嘘やごまかしに内閉するのではなく、「本当にむかついてることを本気で言ってしまう」ことでもあるはず。
何に泣き寝入りしているのか、自分でもわからなくなっている、だから全部我慢してしまう。 ぜんぶ我慢する必要はない、どうしても譲れない事がはっきりしてきたら、何は譲歩して良いかもわかってくる。――そういうことが必要だ。



集団マネジメントと身体

 身体表現に関して、まず思い出すのは、ボスュの当を得た試みです。彼は身体表現のグループを作ったとき、参加者がどこから来てどこへ行くのかに細心の注意を払ったのです。患者やほかの人々がそれぞれ従っている個別的な抑止が問題だったのではなく、言うなれば一般的な抑止――そもそも人間が他人の間で活動しなければならないことから来る抑止を、乗り越えることが問題だったのです。
 しかしながら、集団による身体表現は、逆の危険を伴っています。すなわち、集団の表現がデュオニソス的陶酔に傾いた場合、出会いとコミュニケーションの外観のもと、情動の感染に身を任せて自分を見失い、結局は出会いもコミュニケーションも不可能になるのです。

持続可能性(サスティナビリティ)は、「熱狂はいけない」と連呼するだけでも成り立たない。



内部と外部

 すでにE・ブロイラーが指摘していることですが、分裂病者の場合、内部と外部が区別されていないのです。例えば、分裂病者の前から物を取りのけると叫び出しますが、これは、当人が傷を負ったからなのです。

だとすれば、外部に働きかけることは内部の事情に影響する。



設計プロセスと臨床

 集団の活動が真実、共同体としての活動になるためには、一人ひとりが個人としてその活動に寄与することが必要です。私が言っているのは、共通の目標に向かっていくことなのですが、その目標があらかじめ与えられているわけではないのです。これは決定的な点だと思います。 (略)
 ここで本質的なのは自由という点で、その点からして有効なのは、反復も予見も不可能な何かがいつでも起こり得るような行為だけなのです。二者関係についても同じことが言えます。一対の男女があらかじめ目標を設定して、固定した生活を送っている場合、彼ら自身、それぞれの人生においても共同の人生においても停滞してしまっているのです。 (略)
 治療関係はこうした日常生活に似ています。あらかじめそこにあるのではない何かを患者と共に探さなければならないのです。そして、仮に探し当てたとすれば、患者はある状況に目覚めるでしょうが、この状況こそその人に固有のものなのです。というのも、精神病の定義とは、自分に固有のものがないということですから。

思い出したのは、建築家の藤村龍至氏が提唱する「超線形設計プロセス」の議論。

 「超線形プロセス」というのは、簡単にいえば最初にゴールのイメージを描かずに、ひとつ模型をつくるたびに、何かをひとつだけ修正する、という作業を無数に繰り返すようなフィードバック型の設計方法です。設備計画や環境との関係というテーマは、そういうプロセスを踏みながら設計しているうちに自然と生まれてきました。

「適切な設計」をプロセスの問題として語ると、それは環境を含みこんだ適切な臨床論にならないかどうか。
カギになるのは、「疎外を生まない内発性をいかに残すか」ということと、「にもかかわらず集団的な合意に到達している」という相反する要請をいかに満たすか。



*1:訳をされている橘宗吾氏は、こちらのかたでしょうか・・・?

*2:【引用者注】: ヴィナティエ精神科病院

*3:「素材化する」は自動詞でもある。 「〜を素材化する」(他動詞)と、「〜が素材化する」(自動詞)。

*4:自己監禁には、物質や人への依存だけでなく、ディシプリン依存がある。

*5:「あえて」という言い方がよくされるが、これは対人支援の用語でいえば《技法》だ。 間違った効果しか持ち得ないのであれば、それは技法として間違っている。 ▼技法は同時に、カルトの問題でもある(参照)。

*6:メタ認識のナルシシズムだけが耳目を集める

*7:転移感情

*8:そのまどろみを支えるためには、誰かが過酷な現実を担っているはず。