「環境と臨床」への追記

NHKブックス別巻 思想地図 vol.4 特集・想像力

NHKブックス別巻 思想地図 vol.4 特集・想像力


環境論――身体障碍と精神障碍

 渋谷や中央線沿線の街は “文化的” な場所として語られているが、ベビーカーを押した母親や高齢者が安心して歩ける場所ではない。 子どもや高齢者が安心して歩けないストリートの商店街が、果たしてオープンな空間なのか。 小さな子どもから高齢者まで安心して過ごせるモールの方が、よほどオープンな空間ではないか。 東浩紀氏、「ショッピングモールはオープンではない?」)

東浩紀氏の環境論は、幼児や高齢者をふくむ《身体障碍》だけに照準しており、私は精神障碍への《臨床=social work》の必要が残ることを論じている。生物的身体への配慮だけなら、「論じている自分のプロセス」はまったく検証対象にならないし、配慮は物質レベルで終わる。
タダモノ論的環境論と、唯物論的環境論(人間の労働過程が環境の一部であることまでふくめた環境論)
私たち一人ひとりがどういうプロセスを生きるか、それ自体がお互いにとって環境になる。
ガタリも晩年に『三つのエコロジー (平凡社ライブラリー)』として環境論を語っているが、論じている自分自身が環境であることを論じられないなら、またしても「生命」「全体性」を論じるナルシシズムで終わるだろう。 みずからが環境の一部であることにおいて、「環境そのものの臨床」が語られなければならない。(それは当然、労働環境論にもなる)



病気ではない障碍、医療ではない臨床

1993年の障害者基本法までは、精神疾患は「病気」あつかいであり、「障碍」という枠ではなかった(参照)。 しかしあらためて、「病気」と「障碍」は分けて検証すべき。長期の引きこもりは、精神疾患ではないが、生活機能の障碍ではあり得る。またこの障碍は、単に福祉の対象であるのではなく、内在的な臨床努力の課題であって、「医療」と「臨床」を分ける必要もある



自分がプロセスであることを忘れない技法論

臨床が「その場限りでやるしかない」といっても、単に恣意的なプロセス重視では話にならない。それでは、精神分析の技法が分析家の存在で担保しようとした外部性すら担保できない。今のままの制度分析では、「本人が分節すればそれが分析だ」ということになってしまう*1。 あとは際限のない「議論」というのでは、意思決定論がない。
「プロセスの中心化」でやるしかないという、そのこと自体が技法として超越論的に*2位置づけられなければならない。否定神学的に居直るのではなく*3、みずからがプロセスでしかあり得ないことを踏まえた上での(いわば)集団的な人間の存在論としての技法論をしなければならない*4。 「人間の条件としては、臨床的着手はこうやるしかない」。 いきなり「郵便的」と言ってしまうと、自分の臨床着手を技法として論じられないし、検証もしなくて済むことになる。



ベタなメタ語り

ドゥルーズ哲学は微分係数であり、全体性を一気に語るものではない」*5ぐらいのことは、みんな言う。つまり「局所を微分する」という言い方は、そう語ること自体がメタなアリバイを得て、ナルシシズムに閉じてしまう。これでは80年代と同じではないか。
どう語ろうがナルシシズムに閉じることはできない、語る自分が関係とプロセスである以上、語る自分だけをメタに切り取ることはできないという最低限の確認すら彼らにはできていない。 「メタに語ればベタなナルシシズムが許される」と思っている。
そう語る論者自身は、身近の関係性がどういう事情にあるかを分析しない。つまり、刻々と変化する自分の傾きを調べない。調べるという行為を技法として位置づけることもせず、ただ「微分係数」という言葉を口にすればメタなアリバイを得られたことになってしまう*6。要するに、ポストモダンっぽく論じることすべてが自意識の防衛機制になっている。



*1:やろうとしていたことは違うが、フロイトでは自己分析は最終的に不可能だったはず。だからこそ、面接室内での分析家との対峙(物質断片としての分析家の存在)と、「句読点」(ラカンの短時間セッション)が必要だった。 私は、それに代わる集団的な技法を問題にしている。

*2:上から見下そうとして「超越的に」やるのではなく、「条件を検証する」というかたちで。▼条件を検証する活動は、それ自体が本物の条件と関係のさなかにある。プロセスと時間の外にあるメタ検証はない。

*3:それは技法を無視してメタ規範に居直っている

*4:ガタリに探したいのはそこの部分。

*5:中沢新一、『NHKブックス別巻 思想地図 vol.4 特集・想像力』p.23参照、大意

*6:「自分は大局構造を論じていない」、そのこと自体がメタに肯定されて終わる。