環境と臨床

NHKブックス別巻 思想地図 vol.4 特集・想像力

NHKブックス別巻 思想地図 vol.4 特集・想像力

あまり期待せずに、宮崎哲弥氏の座談会を読み始めたら面白くて、けっきょく購入。 まだ読んでいない章もあるが、決定的だと思った箇所から、理解や方針のちがいを整理してみる(以下、強調はすべて引用者)

中沢新一 ひとつの問題点は、(略) 人間の思考というのは平面を作り出してしまうことの問題性なんだと思います。 思考するときに必ず何らかの平明を作り出してしまう。 (略) 思考し始めるだけではなくて、これを商売とする人たち、なりわいとする人たちが出てくる。 それから、それをひとつの社会組織にまで展開してくる運動が同時に発生してしまうという問題があるわけです。 (略)
 結局、思考が平面を作り出してしまう。これがドゥルーズ=ガタリが言っていたデコーディングとコーディングの弁証法と関わっていて、たとえば資本主義はデコードするけれども、すぐに貨幣によってコード化する。コード化に関わっているある重要な機能として、この平面の問題があるんじゃないかということです。
東浩紀 ドゥルーズ=ガタリ、特にガタリのほうはその複雑なところを考えていたのではないでしょうか。たとえば『分裂分析的地図作成法』はとても変な本です。
中沢: あれはじつに複雑です。
東: ガタリの図はラカンの図より複雑だと思います。とはいえ、この方向でいくと頭がおかしくなるんじゃないかと思って、僕はあの手の探求はやめてしまったところがあるのですが。
中沢: 僕はまだ懲りてないんです。
 個人的に言うと、フェリックス・ガタリという人が非常に好きで、何度かお会いして話もしているし、一番話が合ったフランス人がガタリだったと思います。だから『分裂分析的地図作成法』を読んで、あいつ、こんなこと考えていたんだと、ちょっとびっくりした。
白井聡 最近の研究によると、『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー―資本主義と分裂症』は、じつはガタリのほうが主導的だったと言われていますね。
中沢: そうです。むしろガタリと出会う前のドゥルーズは危機だったんじゃないですか。哲学史家として立派な仕事を積み重ねてきても、そのままではストア派の研究者で終わりますから。大変な危機を抱えていて、そこでガタリと出会ったというのは、一大事件だったんじゃないのかな。 (pp.30-31)



東氏は「ガタリでは頭がおかしくなる」と言い、中沢氏は「ガタリと出会って救われた」話をしていて、真逆になっている。 この不思議さが座談会で放置されたのが残念でならない。


中沢氏がいうのは、「ドゥルーズガタリ思想から、驚きとともに救いを得た」ということだと思うが、
上のやり取りでは、「思考が作り出す平面」が良くないとされ、「デリダもまさに平面に還元できない思考を試みた人」、「結局、剰余の位置をどこに見出すかという問題」とある(pp.29-30)。 つまりここでは、「平面ではないあり方にどういうスタイルで向かうか」、そのスタイルの違いが問題になる。(同じガタリの「平面ではないあり方」に対して、東氏は耐えられないと感じ、ドゥルーズは危機を救われたらしい。)


私はガタリについては、「あまりに自明な左翼イデオロギーを、わざわざ難解なポーズで語って見せただけのナルシスト」と理解してきて、80年代以来、ずっと軽蔑していた。 あるいは「わけの分からないガタリ」と、「わかりやす過ぎる政治運動家のガタリ」は解離的に共存していて*1、そういう理解は私だけではなかったと思うのだが。 ドゥルーズとの共作でも、「ドゥルーズは垂直軸を担当し、ガタリは横断線を生みだした」とか。 もっと露骨に、「天才哲学者のドゥルーズを、アホで素朴な運動家のガタリが励ました」みたいな*2


今の私はガタリに切実な興味を向けているが、「難解なメタ思想」としての位置づけはあんまりどうでもよくて、むしろ問題は、彼が方針とした処方箋のスタイルと、その限界にある。(その処方箋こそが活動形の「平面ではないあり方」であって、それにはどうやら限界がありそうだ。)


座談会後のブックガイドで、中川大地氏が次のように記している。

 北田暁大が『嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)』で明らかにしたように、ニューアカ的な「ネタ」のアイロニズムが、結局は決断主義的な「ベタ」なロマンティシズムに堕するしかない以上、島宇宙の棲み分けやバトルロワイヤルを超えて知の全体性を回復するための道は、二つしかない。すなわち、『日本の難点 (幻冬舎新書)』における宮台真司の態度のような、あくまで全ての島宇宙的な価値をプラグマティックにハンドリングする微調整主義に徹するか、全ての島宇宙的価値がその底に備えているはずの普遍共通の層を「ガチ」に探り当てるところから始めるか、だ。その、どう考えても分の悪い「ガチ」の覚悟を、ゼロ年代中沢新一は、選んでいったようである。 (p.48)



中沢新一氏が、「普遍共通の層をガチに探り当て」ようというなら、私はその方向には興味がないし、そもそも臨床家としてのガタリは、そんなスタイルの研究をされたがっていたのかどうか。 私が興味を持ち得るのは、ジャン・ウリガタリ》の臨床の系譜だ。 つまり、後生大事に蓄蔵されたメタ思想ではなく、生きられた関係性にリアルタイムに介入する《触媒=臨床家》としてのガタリ
人は “思想家” を読もうとするとき、そこに何か深淵なメタ思想があり、「世界の全体性が描かれている」と期待しがちだが、そもそも臨床家として生きたらしいガタリが、そんな全体性への嗜癖的拘泥をどこまで問題にしたのか*3


彼の発言は、いい意味で《その場限り》であり、そういうものとして必須の分節をこそ生きようとしたのかもしれないし、そういうものなら、メタに理解しようとする頭で理解しようとしても、こちらが思いこんでいる事業とは別の作業を彼はやっていたことになるから、ハチャメチャに見えて当然かもしれない。さらに言えば、実は彼は、言葉のパフォーマンスとしては単に失敗したかもしれない。――ガタリが実際にどう言っていたかは今後の研究を待ちたいが、少なくとも私にとって切実であり得たのはそういう意味で、「ガタリの本に何か深淵な全体性が書かれている」と、そういう興味の持ち方ではない。彼が結果的に語って見せたことの殆どには、じつはあんまり興味がない。あくまで彼の《取り組み姿勢》にこそ重要なヒントがあって*4、そこでこそドゥルーズは恩恵を受けたのかもしれない、と思っている。 まさにガタリは、《臨床家=批評家》として、ドゥルーズに関わったのではないか、と。


本当に考えなければまずいのは、「バラバラなものをどうやって生き直すか」という、プロセスの問題で*5、それは統合失調症の患者とずっと過ごしていたガタリには直接の臨床課題だし、同時にもちろん政治課題でもある。 「危機に瀕したプロセスをどう生き直すか」という、主観性の臨床と集団マネジメントを同時に引き受けざるを得ないところに追い込まれていたのがガタリ、彼はそこで《臨床家=触媒》として機能した、少なくとも機能しようとしたように見える。(「政治的下心のある臨床家」というのではなくて、政治性は臨床の方法論に内在的で、政治性を捨象すれば臨床じたいが機能しなくなるような意味で政治的だった。その意味で、「批評的でなければ臨床的に機能できない」。)


今回掲載の論考で言うと、斎藤環氏が書いていることに関係する*6

 私の解釈では、この女性化プロセスこそが、彼なりの自己治療の試みである。すなわち統合失調症の進行にともなう主体の解体プロセスに抵抗すべく、「女性化」が選択されたのである。解体の危機にさらされた主体の象徴的な統一性は、女性の身体性=表層性に想像的な同一化を試みることで、最終的な破綻を逃れる。つまり女性化は妄想の産物と言うよりは、解体に対抗すべく発動した想像力の発露なのである。女性化に向かう想像力は、治癒こそもたらさないが、妄想に構造を与えることで、症状を安定化させる作用を持つ。 (『NHKブックス別巻 思想地図 vol.4 特集・想像力』pp.152-3)



今回の特集は《想像力》で、それはバラバラになった私たちを想像し直し、そのことで私たちを(集団レベルだけでなく個人的にも)編成し直す、政治的であると同時に臨床的な趣旨を帯びたテーマだったと思うのだが*7私はそこで《想像力》の代わりに《制度分析》を置いたし、それこそが《ジャン・ウリガタリ》の最大の恩恵だった。


上の引用部分にある斎藤氏につなげると、制度分析こそが私にとって《象徴的な》、解体への抵抗にあたる。 東浩紀氏は「象徴界が弱体化している」といい、斎藤環氏がそれに「それじゃ統合失調症だ」と反論するという構図を何度か見てきたが、お二人の議論には《分節プロセスとしてのみ生きられる象徴的なもの》という理解が、まったく見られない。 私にとって「当事者」という言葉へのこだわりは、社会的緊張の中でバラバラになる自己を組み直す、「政治的かつ臨床的」というほかない格闘と共にあった。

    • 私が既存の「当事者」文化になじめず*8、別の努力スタイルを生きざるを得なかったのは、まさに《解体への抵抗》の必要ゆえだ。 あるタイプの分節プロセスを生きなければ、私はとても生きていられない。10代の頃から、自分をどうまとめていいかわからなかった。だからこそ、穴のような自我リアリティ嗜癖したし*9、それが「一歩も動けないような自己監禁」になったのではないか、というのが今の理解だ。これはギデンズ流の嗜癖理解とも通じる。つまりここでのテーマは、《プロセスとしての自分のまとめ方》であり、東浩紀氏の言う「剰余をどこに見出すか」というのは、主体が自らを組織するときの方針にあたる。「自分は○○当事者なんだ」というカテゴリー・アイデンティティは、硬直した(イマジネールな)居場所しかもたらさない。 ▼私が、斎藤環氏、上野千鶴子氏、宮台真司氏などにどうしても反論せずにいられない最も決定的な理由は、集団のさなかで生きられる主体の構成プロセスの危機*10を、彼らがまともに扱えていないからだ。
    • 私は生きてしまっているので、制作プロセスとしてそのつど自らを構成するしかない。そこでナルシシズムではなく、ナルシシズムを解体する作業に向かうこと。それこそが私にとって、どうしても必要な《公共性=臨床性》だ。 私的なものを抑圧することで成り立つ公共性ではなく、私的にどうしても生きられる必要のある公共性。 自分の事情を素材化し、内在的に分節してみることへの忘我的没頭。 ▼ところがそれが「当事者」として商品的に、あるいは政治運動的にパッケージ化されると、自己顕示の塊にしか見えないのだ。



本書では《想像力》と共に、中川大地氏による《生命》というキーワードが記されているが*11、そういう大文字の言葉で「分かった気に陥る」ことの臨床的弊害を気にしたい。全体を包摂するように見えるキーワードは、大まかな見通しのために一瞥しておけば十分であり、それ以上固執してもナルシシズムにしか役立たない。
本当に必要なのは、目の前の作業への方法的工夫だ。 「頑張る」だけでは、技法を論じたことにならない。



【課題1】: 集団的意思決定

全体性のナルシシズムをもたらすキーワードやメタ談義は、個別臨床的には危機をもたらすが、集団的な文脈作りには役立つ*12。 逆に言うと、個別事情への誠実さは、臨床のディテールには溢れていても、集団的意思決定にはまったく無力だったりする*13

普遍性や公共性は、メタ認識の全体性ではなく、ミクロで時間軸のある取り組み姿勢にこそ問われるが、私的必要に迫られたある姿勢に公共性が宿るとしても、それはなかなか共有されない。――伝播力を持つのは、「臨床実績」しかないようにも思える。



【課題2】: 生物的身体の管理と、集団的な声の臨床

NHKブックス別巻 思想地図 vol.4 特集・想像力』、いずれも東浩紀氏の発言より:

 「生物的身体の管理の領域こそが、公共性が関わるべき領域」(p.368)
 「バリアフリーとかユニバーサルデザインというのは、弱者への配慮云々以前に、公共性や普遍性を実質的に確保するための最低限の倫理のことだと思うのです。幼児や高齢者をシャットアウトしたところに公共性はない。」(p.388-9)

公共的な活動を、

    • 東氏は《動物性の管理》、つまり事前的な環境設計に見ていて、
    • 私は《臨床の必要》、つまり「事後的分節」と「状況内在的な再編成の活動」に見ている。

東氏が《環境》で私が《ヒト》のようだが、人間はお互いがお互いにとっての《環境》だから、むしろ私が言うのは、「最も“人間的な”努力も、それ自体がお互いに環境要因だ」ということだ。 《環境に影響される最下層の私的必要性》に公共性の鉱脈を探ろうという意味では、遠い話ではないと思うのだが・・・。
公共性は、取り繕われたアリバイではなく、むしろスキャンダルを丁寧に扱う作業にこそあるし、そのプロセスこそが共有されるべき公共活動ではないのか――というのが、私の渾身の提言にあたる。(「動物」ではなく、私秘性を、非実存的な環境要因と理解すること。)
生物レベルの環境整備と、それでも残るリアルタイムの調整は、「両方必要だ」としか言いようがない。


⇒【追記


*1:東浩紀が読み解こうとしたデリダでは、「わけの分からない中期デリダ」と、「分かりやすい政治運動家である90年代以降のデリダ」は、時期として分かれていたが、ガタリでは同時期に解離的に併存しているように見える。 なので、「結局はわかりやす過ぎることしか考えていないくせに、詩的にポーズをとって、必然性もないのに難解に書いているだけ」と、そう理解していた。

*2:ジジェクはどこかで、「ガタリに出会う前のドゥルーズが良い」と言っていた。 Cf.「ガタリ化されたドゥルーズ

*3:中沢氏はドゥルーズ哲学について、「あの哲学は微分係数でできており、局所的な情報しかない。全体の大域構造なんて分からない」「ドゥルーズは局所構造だけ、微分係数だけで哲学を形成できると考えていた。つまり、微分係数だけを考えていると、大域構造が必然的に出てくるということを考えていたんじゃないでしょうか」と語っている(『NHKブックス別巻 思想地図 vol.4 特集・想像力』p.23、一部要約)。 ここで言われている「微分」が、ガタリらの言う時間軸のある制度分析と、どう違うのか、同じなのか。

*4:この理解は、三脇康生氏に負っている。

*5:「断片が断片のままで回っていくようにするにはどうしたらいいのか」(宇野常寛、p.361)ということまで含め

*6:が、斎藤環氏の言説は関係性に介入する政治性を排除して成り立っているように見えるため(メタ的なモデル生産に没頭してしまう)、読者の精神にひどくインフレを起こしやすい文体に見える。(これは私はついでに触れているようだが、これからずっと時間をかけて考えなければならないテーマだ。文体そのものが臨床的負荷を帯びていて、批評はそこをこそ扱わねばならないと思える。誤った文体への居直りは、臨床的に害をもたらす。)

*7:冒頭座談会には佐野史郎氏の「想像力の一貫性」という言葉が引用されている

*8:それらはむしろ臨床的に害悪に思えた

*9:「自分の中の自分以上」である《あのアレ》は、究極の倫理的ミッションのよりどころに思えた

*10:その危機は、単に “臨床的” なのではなく、政治的葛藤でもある

*11:《「生命化するトランスモダン」への助走――「環境」と「生命」の思想戦史」》(p.401-421)。

*12:宮台真司氏が続けているのはこういう作業。 「自意識の不安をもたらすことで動員する」。

*13:私が理解できた範囲での《ジャン・ウリガタリ》的な方法論、つまり「制度を使った方法論」には、集団的な意思決定の手続きが含まれていない。 ウリは「知らないうちにものごとが決まっているという状況」「決定の機能(fonction décisoire)」というのだが(参照)、その議論は、やはり何らかのカリスマ的存在に頼っているように思われる。