権力として構成される自分の声を分析する、というのは、フロイト的自己分析の変奏といえる。

「複数の声の中で、自分の声をはっきりさせる」ことは、政治の問題であるとともに、臨床の問題だ。
周囲には複数の声があって、私は自分をどうまとめ上げればいいかが分からなくなる(去勢のフレーム問題)。
自分は、関係の中に与えられている。だから集団的意思決定の責任と困難を伴う。 それは苦しいが、一人だけでは風通しも起こらない、はず。

    • 《権力の構成》。 自分のいる場所にどう声を構成するか。 これを臨床として考えている人がほとんどいない。
    • デリダは「自分が話すのを聞く」という現前性の暴力を問題にしたが、声は同時に構成のプロセス。 声の臨床と政治はここにかかわる。 単に形而上学者のように「自分、自分」とつぶやいていればいいのではなくて、私たちは生活の中で、自分をどう構成していいか分からなくなる。 そのわからなさへの臨床的対処がないゆえに、詐欺的な思想家や制度の言説にはまってしまう。そこでパターンが固着する。