野生の関係

社会参加と暴力」(ishikawa-kzさん)へのコメントより:

Z99 様々な集団にあてはまると思う。「不健康なコミュニケーション」に対して異議申し立てできる仕組みを集団に組み込めたらいいのにと強く思う。職場組織という言説空間の健康度をチェックする監視システムが欲しい。

精神医療には「審査会」というのがあるのですが(運営マニュアル*1、そういう趣旨の取り組みが、さまざまな「人の集まる場所」にないとまずいと感じています。

わかりやすく「いじめはいけない」と言ったって、具体的な人間関係はメタには語れないし、相対主義の中では、誰が正しいのかもよくわかりません*2。 小さな集団のなかでは、正しい人というより、独りよがりな人の主張が通ってしまうことも多い。
政治経済ではよく「自由主義」が議論されますが、身近で持続的な人間関係は、本人たち同士に任せきっていたのでは、いびつな形に歪んでいきます。 そこでいきなり誰かを分かりやすく糾弾するのではなく、「実際にどういう状況が生きられているか」を検証する作法や仕組みが必要と感じます。(事情を検証する作業をすっ飛ばして安易に被害や加害を語るところに関係の貧困がある。)
その場を離脱して終わらせられればいいですが、「一生監視してやる」という脅しもあるし*3、コミュニティや労働への参加機会は限られているので、簡単に追いつめられる。 「とにかく自由に関係を作れ」だけではなく、関係をメンテナンスする仕組みが必要です。

メモ

  • 《関係性の再分配》は、そのフレーズだけを聞けば、「付き合いたくない人とも無理に付き合ってあげる」みたいな貧しい意味にしかならない。 そうするとそれは、関係性を再分配することによって、お互いの生のクオリティをかえって下げていないか。 「どんな人とも仲良くしましょう」は、それを言う人が全体主義の抑圧をかけることにすぎない。 そもそも人間は、大抵の場合、お互いにあんまりうれしい存在ではない。
  • 不登校や引きこもりの全面肯定を謳うあるフリースクールは、一部から「暴力性の強い宗教団体」みたいに受け止められている。 団体名を出すだけで、怒りや恐怖に顔をひきつらせる人がたくさんいる。 ▼表向きのイデオロギーを維持するために、どういう関係実態が押し付けられてしまうかこそが、分析されねばならない*4
  • 社会参加が難しい人たちが自前で作りだした集団には、依存・脅迫・強引さ・嫌がらせが満ちている。 剥き出しで人間関係を生きることになるからだ。 既存システムに包摂されない存在が自前で関係性を作ろうとすると、関係性そのものが雑草状態になる。 (考えてみればそれは、多くの就労現場でも同じではないのか。)
  • お互いに前向きな気持ちで集まればお互いに良い存在になれる、などと思ったら大間違い。 私たちは、関係を持とうとするだけでお互いに power を生きる。 考えるべきは、私たちが「すでに生きている暴力」であって、アリバイで自分を押しつけることではない。 自分だけを一方的に正当化するような強引さは、長期的には維持できない。
  • 自分が実際に持っている関係性(その体質)を棚に上げて、メタ語りに終始する人たち。 上から目線も下から目線も、それらを攻撃して悦に入ることも、すでに生きているスタイルに居直っている。
  • 規範が共有できない状態では、何かにつけて紛争が生じるが、警察からは納得のいく介入は得られない*5。 だとすれば、自前で制圧暴力を準備せざるを得ないが*6法治国家では、自力救済は違法になる。 「違法行為なしには生きられない」というのは、そんなに遠い世界の話ではない。
  • 仲良くやっている関係性は、その融和そのものが暴力になっている。 つまり、集団的なナルシシズムが分析を拒否する。 カウンセリングの面接室なら、分析家が解釈の権力をふるえるだろうが、半開放的な集団のなかで、それができるか。 がんばって分析を提示しても、周囲にしてみれば恣意的な実存に振り回されただけだろう*7。 そもそも、お互いにそんな分析を提示しあったのでは収集がつかない。 そこで技法が要るはずだが、まだよくわからない。




*1:住友雄資氏のHPより。 あるいは『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』p.121 第2章・第4節 「外から病院に働きかける試み」などを参照。

*2:いじめと、正当な糾弾の区別はどうつけるのだろう。 全員が、「自分は正しい」と言い始めるに決まっている。

*3:私はもう何年もそういう脅しに苦しんでいますが、刑事的な手続き以外には、基本的には誰も助けてくれません。 「そんな奴とかかわったお前が悪い」、つまり自己責任というわけです。 ▼ひきこもりの支援団体や自助グループにアクセスすることは、まったくの “自己責任” 状態にあるのですから、その危険さを考えるべきです。 放っておけば、個人や団体は、自分に不都合なことを隠そうとすることしかしません。

*4:表向きのイデオロギーは、それを標榜する人たちのアリバイ作りであり、それ自体が暴力になる。

*5:手続法に縛られているだけでなく、人員と予算は有限なので、どう動くかがそのつど政治的な判断になる。 紛争の実態が制度的枠組みを踏襲していなければいないほど、動いてもらいにくくなる。

*6:いじめや嫌がらせをやめさせるには、暴力が要る。 それは「集団で一人を弾圧する」という形かもしれない(そういう強力さがなければやめさせられない)。

*7:分析を試みた本人も、受傷性を高めただけだ