共同体とコスト

  • お笑いの大御所は、それぞれがコミュニティの支え手に見える。 たけし、タモリなど、お一人おひとりの周囲に “ファミリー” らしきつながりがあって、あるファミリーに馴染みそうな人は、別のファミリーには馴染みにくいように見える。 ▼同じ番組に出られる関係性もあれば、無理そうな組み合わせもある*1。 しかし、それぞれのグループを個別に見ていると、その《つながりかた》は自然に見える。 ひとつの場所を、ひとつのつながり方が支配すると、別のつながり方はいつの間にか排除されている。
  • カリスマを頂く共同体は、つながりを維持するコストは低く済むかもしれないが、圧倒的な上下関係がある*2。 対等で横目線のコミュニティは、自由だが、つながりを維持するコストが高くなる。
  • 相対主義しかないなら、つながりを維持する必然性はない*3。 必然性を確認しだすと、「意識しすぎて自転車に乗れない人」みたいになる。 そこで、つながりを維持するために自分を押し殺し、なんでも順応主義で乗り切ろうとする。 するとすべて泣き寝入りになる。 「埋め込まれること」が、共同体を維持するコストになる。
  • 横目線のコミュニティでは、「引き受けた人が、利用された」になりがち。 つながりに必然性があるように見えている間は、搾取され放題になる。 必然性という主観的印象をもたらすメカニズムこそが、搾取の主体になる。




*1:たとえば、とんねるずダウンタウンが共演するところはすごく想像しにくい。

*2:つながりのコストを下げるために、「カリスマ的人物」の周りに集まることがある。 心酔そのものが自己暗示になる。 コストを下げやすいということは、それだけ多くの人が支持するということ。 「支持されている」ことが魅力になる、という循環がある。

*3:お互いに利用しあう関係と、過剰流動性しかない。 「利用できるから一緒にいるだけで、お前でなくともよい」。