《つながりかた》という、政治的・臨床的な課題

いくつかの集まりに参加し、生きづらさや居場所についての話になった。
それであらためて、繋がろうとすることよりも、《つながりかた》こそが問題なのだと思い至る。

「論じかた」=「つながりかた」。

知識人たちの言説に非常に特徴的なのは、彼らの論じる内容が、彼らじしんの営む身近な関係性のありかたと解離していることだ。 「こんなのできましたよ」という知性誇示ばかりがあって、どういう前提を共有してつながっているのか、そこの分析は拒否する(批評とは認めない)。

「環境管理と動物化」「つながりの社会性」「オタクになれ」「感染せよ」など*1、つながりに関するメタ分析や提言をひたすら続けているが、彼らはリアルタイムの具体的な関係分析を、コミュニティ維持の必要条件とは見なしていない。 臨床に口を挟むような提言を繰り返しているのに、メタ言説や硬直した方針をリピートするだけ。――「こういう論じ方をしないと、あなたは入れてあげないよ」という命令が、解離的に言外に潜んでいる。 私は、その命令をこそ主題化している。(臨床的と呼ぶべきこの趣旨によって、私はくり返し怒りを買う。コミュニティの、「真面目さ」のナルシシズムに抵触するのだ。)


言説の《ジャンル》は、固定されたつながりの様式になっている。 その生産態勢を踏襲することが、参加の条件になる*2。 そこで新しい論者は、古い世代の延長上で仕事をするのではなく、むしろ《論じかた》を刷新し、新しい《論じかた=つながりかた》を実演する。 そのスタイルが根付くかどうかに、政治の賭けがある。

「何をどう論じれば、知的・政治的に論じたことになるか」というフォーマットの部分にこそ、本質的なバトルがある。 そのレベルこそが、「誰が正しいか」以前に、参加の条件を決めている。


「ひきこもりについて論じる」と言っても、論じ方がすでに思想的選択なのだ。あるスタイルで議論が始まってしまったとき、すでに本質的選択は終わっている。私はそこに介入し、むしろその介入を《つながり》の必須要件にしようとしている*3。 コミュニティをめぐる試行錯誤は、《つながりかた》にある。その《つながりかた》を主題化せずに、いきなり「こういう形でつながれ」と命令しても、肝腎の問題をすっ飛ばしている。私たちは、お互いに自分の好みの《つながりかた》を押し付けあっている。



つながりを意図して集まっても、基本的につながりなんかできない。むしろ、人が集まることで対立がむき出しになる。

「どういう居場所がほしいか(作りたいか)」と一人ひとりに伺っていくと、理想とする《つながりかた》が語られる。 各人の理想は、バラバラなのはもちろん、お互いに敵対すらする*4。 にもかかわらず、それを「居場所」という同じ言葉で表わそうとするから、肝腎の差異がぜんぜん論じられない。 「居場所がほしい」と言っても、求められているつながりのディテールは、一人一人で違っているのだ。

あなたは、相手の理想を提供できないかもしれない。しかしかといって、あなたが悪いとは限らない。――だから、つながりを作ることに失敗した支援者が、一方的に責められるのは何かおかしい。つながりなど、双方が目指していても失敗するのが当たり前ではないか。思想が違っているのに、無理につながりを作ろうとするのは、問題をこじらせるだけだ。(そうした場合、その場に機能している《つながりのフォーマット》が自覚されていないために、誰がどういうロジックで排除されようとしているかが、言語化されない。)



「弱者という当事者」ではなく、「関係性を生きる当事者」

私はここで、自分を弱者カテゴリーに落とし込んで「当事者」に居直るのではなく、お互いの関係における当事者性を問題にしている*5。 これは、「イジメはやめるべきだ」といった規範誇示ではなく、自分たちの場に生きられている関係の再検証を意味する。 規範理論からイジメや精神病を扱う人には、ご自分じしんが生きる臨床過程の議論がまったくない*6。 固定された社会規範への合致を要求する命令ばかりで、リアルタイムのディテール分析の豊かさは黙殺・隠蔽される。 規範言説や社会学が流行している昨今の状況においても、身近な関係性を素材化することは禁忌になっている。*7

メタな規範言説に向かう人は、あまりにナイーブな「当事者ポジション」理解しか持っていない。自分のことを論じないのがストイシズムだと思い込んでいるのだろうが、その思い込みの陰には、何の批評にも晒されない、ベタな当事者ナルシシズムが隠れている。

さんざん規範や環境を論じたあげく、「実は僕もいじめられてたんだけどさ」。 で、そう言えば批判されないと思い込んでいる*8。 メタ分析の言説が、当事者ナルシシズムと解離的に同居する。そして、メタ言説による周囲への威圧も、「体験者だから」という周囲への威圧も、まったく当然であるかのごとく温存される。 内容そのものより、その言説が前提にしている「周囲との関係の構図」を、絶対に触らせないのだ*9

「○○当事者どうしだから、わかりあえて当然」――これがどれほどひどい勘違いであり暴力であるか、繰り返し主張しなければならない。私は、「○○当事者同士だから」という仲間意識を、たいへん警戒している。不登校や引きこもりの経験者は、むしろたやすく私の敵に回る。逆に言えば、いわゆるエリートコースにいる方でも、取り組みかたを共有できれば、そこにつながりはあり得る。 私は、肩書き(カテゴリー)や論考の対象(不登校・ひきこもり)ではなく、《問題意識のあり方》に、つながりの可能性を見ている*10



*1:以上はそれぞれ、東浩紀北田暁大斎藤環宮台真司のモチーフ

*2:東浩紀によれば、知識人のアリーナでわかりやすい役割を果たさなければ(「右翼/左翼」等)、政治的な発言をするのは難しいとのこと(参照)。

*3:諸外国の臨床運動に注目しているのも、基本趣旨はそういうことだ。

*4:「自動車学校みたいにドライな場所がいい」という人もいれば、「ふれあいたい」という人もいる。 「黙って一緒にいたい」も、「徹底的に議論したい」もいる。 たとえばそうしたこと。

*5:「ひきこもり」「部落」「女」など、弱者カテゴリーに居直ることは、むしろ身近な関係性における当事者性の分析を拒否することだ。 「私は《弱者=当事者》だから、許される」。 その裏返しとして、「私は医者/学者/支援者だから、当事者より上位にある」。 いずれの場合も、表面的な “フレンドリーな” 言葉遣いが、関係性の実態を隠蔽する。 役割や言説ディシプリン(その制度的硬直)が、つねに差別的暴力として再演される。 私は、こうした暴力においてこそ “居場所” を与えられてきた。

*6:たとえば、内藤朝雄芹沢一也など。

*7:【6月24日午前10時ごろの追記】: エントリー後、末尾の二文を一部改変しました。

*8:いじめられていた人の「目の前の関係の作り方」が許し難いことは、いくらでもあり得る。

*9:それは、《つながりかた》を固定することを意味する。つながりは、言説の体質そのものであり、言説のスタイルこそがつながり方を決めている。

*10:こう考えてしまうと、過剰な世代論は本当にくだらない。同世代というのは、ほかの世代と同様、私にとってはほとんど話の合わない人たちであり、世代が違っても、《論じかた》を共有できればいい。▼世代論を好んでする東浩紀は、ご自分より40歳以上年長のデリダに転移していたのに、今はほとんど5歳刻みで「世代の違い」を論じている。