強いつながりが生まれる時には、それに適応できない人・排除される人も同時に生まれている。規範意識に照準せず、「環境管理」に照準するのはだから有益でもあるが*1、管理された場所で《つながりかた》はパターン化する。
メタ的な環境管理論でつながれる人は良くても、それができない場合は? あるいは「メタ的な環境管理論」は、それ自体として関係性のパターンになる。 「頭良く考えるとはどういうことか」のパターンが、コミュニティで暗黙に決まっていく。
孤立する人は、たいてい途方に暮れているだけだから、もう一度つながりを作ろうとした時点で、陰湿な共同体主義がすぐに復活する。(「自分だけは特別」と思い込む凡庸なナルシストが作りがちな共同体のパターンがある。「自分だけは、間違ったものに帰依していないぞ」。その思い込み自体がカルトを成している。)
私は、ひきこもる子供をもつ親御さんたちに話しかけるのに、「皆さんは社会参加のプロですから」と説得することがある。 《すでに成立させた社会参加=つながり》を問い直すことは、信じている宗教を問い直すようなものだ。激しい心理的抵抗があるし、その信念のスタイルを壊したら、生活管理じたいができなくなるかもしれない。反復される自己管理のスタイルに介入することは、精神の政治体制に革命を起こすようなことだ。
すでに社会参加を成功させた人たち*2には、その意味であまり期待できない。 彼らはたいてい、自分たちがすでに生きているパターンを周囲にばらまくだけで、その作法自体を問い直すことをしないから。
「制度や規範の他者」をテーマにする議論*3は、それを論じている自分自身がすでにどんなパターンの勤勉さを生きているかを考えない*4。 逆に、生きられた逸脱を内在的に論じる思想は、その自分の議論に興味を持たない相手を、「他者の歓待」という凡庸なイデオロギーでしか扱えない*5。――ここに、社会学・リベラリズム系の議論と、精神分析・フランス現代思想系の議論の対立とすれ違いがある。