4月6日 上山→永瀬

 文脈は違いますが、ひきこもる人が社会参加しようとするとき、なぜか「分別もあり、批判も試みる大人」としてではなく、「純真で疑いを持たない子ども」のような社会復帰を望まれる、そういう抑圧を常に感じるのですが、「社会に入っておいで」と待ち受ける《親/批評家》の受容態勢の、身勝手な恣意性を感じます。(批評家のその「批評態度」は分析されないでいいのか、という)
 「何が受け入れられ、何が排除されるのか」というのは、とても政治的で、その判断のあり方について、分析が必要です。――分析の結果がいいか悪いかの前に、「分析してもかまわない」という雰囲気すらない。永瀬さんが私の議論に興味を向けてくださったのは、分析が禁じられた状況への苛立ちとかかわるのではないでしょうか。逆にいうと、その分析のプロセスでしかご一緒できない。(それが「組立」というご企画と理解しました。)

 また、私たちの間にもこういった問題は起こりうる。私が再三「応用ではない」といいながら、恣意的に上山様の思考を援用しているかもしれない、という事はこの企画の最中、そして今も実感としてありました。

 このような不安こそが、必要だと思うのです。イデオロギーを共有してなれ合うのではなく、分析は常にトラブル因であり得る、その不安とともに分析を続ける、その作業でしかご一緒できない。こういう不安定さこそが唯一あり得る「つながりかた」というか。(「つながろうとすれば繋がれる」ではないと思うのです。むしろ「つながること」は、お互いにとって抑圧であり得る。)
 「それぞれのジャンルで、自分のいる場所を分析してみる。その分析どうしが出会う」というのが、私が理解する制度分析で、永瀬さんは、その貴重な機会を与えてくださったと感じています。


 「結果的な作品」というだけでなく、「つながりの作り方」が、提案されているのだと思います。
 私はひきこもりに関して、単に「社会復帰率」で勝負するのではなく、「社会に復帰し続ける、その参加の制作過程」にこそ照準すべきという立場でやっています。
 気になるのは、こういう作業は孤立しがちということです。永瀬さんの問題意識は、その着手のスタンスにおいて、私のひきこもりへのアプローチと接点をもったのではないか…と思いました。