記事中で、「現状を打開しようと親父を刺した」というのは、こちらの事件です。
それに対する私のコメント部分:
「ニュースだけでは細かい事情は分かりませんが、猟奇的に異常視しても有害なだけです。ひきこもりでは、自分のせいで親が苦しんでいる、という罪悪感や無力感が傷になっていることも多い。現状を打開するというのは、その自分の罪悪感こそが耐えられず、絶望的な無力感の傷口を刺してしまったという可能性もあるのではないでしょうか」
コメント自体を断わるべきかと悩んだのですが、以下のような趣旨で臨みました。
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- この記事は、一方的な好奇の目に晒されやすい*1。 「“現状打開”という理由で親を殺した異常者」という発想を問題にしたいが、「そういう解釈で楽しみたがる目線こそが、社会参加をこばむ共犯者だ」・・・などと論じる機会は与えられていない。 端的な抵抗が要る。 コメントを断われば、反論の機会自体が失われる。
会ったこともない人の事件について、「安全圏からのメタ解釈」をするべきではないし*5、「代弁」などは権利上もできません。 しかし、「ひきこもり経験者」としてコメントを求められる役割設定を通じて、できることがあると踏み切りました。
あるいは、「コメントするべきではなかった」と思われますか。 ご自身がコメントを求められたら、どうなさいますか。
生産態勢の固定と、「役割=党派」の硬直
「どうコメントするか」は、そこで問題になっている属性*6でインタビューされる側のコミットのしかたとして、準備する必要があると思います*7。 ▼「識者」が自分は健全であるようなふりをして「○○」を対象化し、「○○」の側は、受け狙いの「過激な発言」でその場を盛り上げようとする。 いずれも、自分が共犯者になっていることに気づいていません。 「メタから解釈する者」*8も、「取材される対象物」に居直る者も、同じ環境世界のルーチンを生きている。
必要なのは、承認されるあり方を全員が問い直すこと、むしろその問い直しをこそ常態化させることであり、それがなければ、身近な関係や一つひとつの原稿が変わっていきません。 その「目の前の関係」にこそ、時代の苦痛が生きられているというのに。 ▼結果物としての「若者」「ひきこもり」etc.を全面肯定しても、それ自体が論者のアリバイになってしまう*9。 枠組みを固定して承認し合っているだけで、《取り組み》としての協働がありません(それゆえ批評の介入があり得ない)。――これは結局のところ、お互いの存在をナルシシズムの道具として利用しているだけです。 参加者に一定の恩恵をもたらすとしても、相互的なナルシシズムがお互いを監禁していく。(治療者と患者の関係も、すぐに「コスプレ」になってしまう。)
知識人たちは、「時代の診断」というメタ談義で生産態勢を固定し、その態勢で成り立つ自分たちのコミュニティの体質を問いません。 いっぽう「弱者」*10も、メタ的な役割固定によるコミュニティを問い直さず、けっきょくは大文字の政治イデオロギーへの忠誠を誓わされる(だからすぐに内ゲバ)。 いずれの場合でも、中間集団に参加できません。
現状では、「言説行為の役割固定」と、硬直した党派主義が、お互いを補強し合っています。 それゆえ生きづらさへの取り組みは、踏襲されている生産態勢への介入になる――のですが、これが、最も激しい排除の対象になる…
*1:ただでさえそうであるうえに、掲載紙『夕刊フジ』には、ポルノやゴシップの記事が溢れています。
*2:傷を再生産する「責めの構造」が固着している
*3:関係者でも、そうした事情を言葉にできる人はあまりいない。
*4:参照:「被告・被告人・被疑者・容疑者の違いは?」(『弁護士菊池捷男の知って得する法律豆知識』)
*5:その解釈自体が、固定された消費ルーチンのなかでの消費財になる。 論者と読者は、ともに観客席で悦に入る。 「自分の取り組み方」こそが問題なのに。
*6:「10代」「若者」「ひきこもり」「ニート」「フリーター」「女性」「野宿者」etc...
*7:私がコメントを求められることはもうないかもしれませんが
*8:「メタから解釈する若者」は、生産態勢は年長世代と同じでしかありません。
*9:逆にいうと、現代の社会参加は「アリバイ作り」の形をしている
*10:および自称「代弁者」たち