中間集団の実態と、恒常的な素材化の必要

「ひきこもり経験者の立ち上げた居場所」、『京都ARU(アル)』の代表・梅林秀行氏(35歳)のインタビューが、2月10日付の『夕刊フジ』に掲載されています(11面)。 以下、同文のネット転載である「必要なのは『生きた支援』の場」より(執筆は池上正樹氏、強調は引用者):

 29歳のとき、親に紹介され、民間の支援団体を訪ねた。 (略)
 1ヶ月後くらいからスタッフに抜擢され、1年後、別の場所の民間支援団体の職員になった。
 ところが2年前、団体内で “事件” が起きる。
 「引きこもりの人たちやその親御さんと、支援者の間で衝突が起きたんです。当人たちが元気になってきて、自分の意志で働き口を探したり、意見を言い始めたりしたのが理由のようでした。でも、必死の思いで来た人たちが、支援という名の下で、なぜボロボロに傷つけられなければいけないのか。支援のあり方そのものにも、理不尽さを感じたんです」
 支援者の望む自立と、本人たちの思いが、必ずしも一致するわけではない。梅林さんのパソコンや机も、目の前で無残に壊されたという
 結局、この騒動で約20家族が行き場を失った。梅林さんはその受け皿を作ろうと、京都ARUを作った。

2年前というと、梅林氏が『引きこもり狩り―アイ・メンタルスクール寮生死亡事件/長田塾裁判』に寄稿したころ(参照)。 そのため今回の証言は、関係者がほぼ特定できるかたちになっています。


何があったか、周辺にどういう事情があるかについては、一つひとつのケースについて、公正な検証が必要です。――《臨床的》という場合、心理・医学的であると同時に、法実務的な意味でもあるということを、ますます強く感じています(cf.「臨床法学」)。

この1件だけをゴシップ的に消費するのではなく、支援団体や自助グループにあり得る紛争について、社会学的な調査も行いつつ、状況の整備が必要です(参照)。



関連する問題意識のメモ

  • ひきこもり支援団体の門をたたくということは、完全に孤立した個人が、ある集団に巻き込まれるということ。 それがどれほど恐ろしいことか*1。 アイ・メンタルスクール事件の際に取材した方によれば、複数の支援者があの死亡事件について、「極端な団体さんのことで、ウチには関係ない」と捉えていたという*2。 支援の場が、力関係の場でもあることが気づかれていない。 ▼事件をきっかけに冊子『共同生活施設のルール』が公刊されたが、「ルールを定める」というのは、たいへん権力的なふるまいになる。 一部の掛け声だけでなく、何らかの手続きによる制度化がなければ、機能しない。 またこれは、宿泊型施設に限ったことではない。
  • 今回の記事では、「支援する側」の圧倒的な強さ・加害性が問題になっているが、居場所・訪問活動やネット環境では、支援側も「被害者」になっている*3。 しかも、「ひきこもり経験者からされたことは、泣き寝入りするべきだ」とする不文律において、支援者や取材者が沈黙を強いられる空気すらある*4。 弱者支援や友愛のイデオロギーを強調する現状では、「どういうタイプの紛争が起こっているか」は隠される傾向にある。 ▼大文字のイデオロギーの陰で、中間集団が密室化している。 現場レベルのディテールを問題にできる雰囲気づくりや、第三者性が機能する制度づくりが必要だ。(民事・刑事の裁判だけでは、日常的・持続的な改善努力になりにくい。)
  • 支援者と被支援者の間だけでなく、支援者同士、また被支援者同士のあいだも、グロテスクな力関係の場になる。 もともと人間関係に傷を持つ人が多いため、Politically Correct な いじめ禁止だけでは、臨床的に取り組んだことになっていない。 一般には想定しにくいようなことについても、「関係の暴力」が生じ得る(参照)。 ▼支援を受ける側も、党派的な暴力の主体になり得ることが気づかれていない。 「どの支援者に味方するか」は、すでに党派闘争になっている。 「生きづらさ」を抱えたあなたは、ほかの人の生きづらさを作り出す環境要因でもある中間集団や党派性への取り組みを、社会参加臨床の中核に据えるべき。 単なる順応や権力批判ではなく、「権力の臨床」が要る。
  • 自分が孤立したまま、相手を特定できる実情を証言するには、さまざまなハードルがある。 警察やマスコミが介入した後ならまだしも、証拠の残りにくい(証拠隠滅すらあり得る)内輪の関係で起こったことを証言すれば、泥沼の訴訟劇になりかねない。 込み入った事情の説明そのものが難しいだけでなく、逆恨みによる復讐にも怯えなければならない*5。 ▼こうしたいきさつや自分の失敗まで含めて、起きたトラブルのディテールをできるだけ公開し、素材化したい。 それは、単に判決をつくるためではない。 一つひとつのトラブルは、あくまで私的でありつつ、実情の公的検証機会になり得る(参照)。 これは、一方的にメタ的正義を主張することではなく、いわば《素材化の正義》にあたる。 ここでメタに立ち得る人間はいない*6
  • 「周囲から孤立し、警察も対応してくれない」場合、その場を辞去する以外にないが、「ほかでもやっていける」と思えるためには、相応のキャリアや社会的スキルが要る。 孤立感や絶望が深いほど、「この場で失敗したら最後だ」と思いつめることになる*7。 ▼必要な対処の一つは、周囲が問題状況を共有することだが、ここで中間集団の党派性が顔を出す。 紛争のいきさつから、孤立した人をさらに排除する力が働くかもしれない。(そのことについてすら、「完全な正義」からの裁断はできない。)
  • お互いのナルシシズムを擁護する集まりでは、トラブルが起きるとみんなそっぽを向く。 「多様性を肯定する」という発想だけでは、トラブル時に何も対応できないばかりか、責任を忌避して逃げ回る態度を擁護するだけにもなる。 単に「なんでもあり」の状況は、かえって紛争を深刻にする。 ▼鏡像を見つめ合うような仲間意識に浸るだけでは、リアルな話を始めた瞬間にトラブルになる。 若年層の労働運動まで含め、今はこのような党派集団しか見当たらない。 逆にいえば、中間集団や党派性の主題化を通じて、ひきこもり支援と労働運動が同じモチーフを共有できる。



お互いへの批評的言及を忌避し、集団での検証姿勢をもたない支援業界は、加害者たちの巧妙きわまりない手口に間接的に加担しています。

中間集団や党派性は、単に “知的な” テーマではありません。 孤立した人の社会参加を支えるための、生活のかかったギリギリの話題です。



*1:自発的に集まるケースであっても、「集団への参加」には、つねにそういう要因が伴う。 ありていにいえば、中間集団こそが傷なのだ

*2:とはいえ、支援対象者による暴力的言動にはどの関係者も苦しまれているので、「支援の現場に起こる暴力をどうするか」というのは、避けて通れないはずです。 ▼逆にいうと、人の集まる場からリスクを取り去るのは不可能ではないでしょうか。

*3:暴力、ストーカー行為、誹謗中傷、etc...

*4:自助グループで起こったことは、さらに表に出にくい。

*5:私自身が複数の人物から脅しや嫌がらせを受けているが、周辺事実を素材化するには、公開を嫌がる関係者への説得以外に、加害者から一生付きまとわれる覚悟が要る(このエントリーを記すだけでも)。 1999年の事件をきっかけとする現在のストーカー規制法は、規制対象が「男女間+オフライン」に限定されており、「同性間+ネット上」にはほとんど機能しない(参照)。 現状では、いくら被害を訴えても、加害者を刺激するだけに終わりかねない。

*6:一方的なメタ正義は、それ自体が虐殺と抑圧の担い手になる(参照)。 自分が正義だと思い込む人たちは、党派的利害のためなら平気で嘘をつく。

*7:中間集団という社会関係資本を失うことは、心理的にも経済的にも破滅的な体験であり得る。