「境界に立つ審査会」はできないか

Klee 「南の庭」

15日、「ほっとねっと兵庫」の「兵庫ひきこもりシンポジウム」に聴衆として参加しました。 15の支援団体が集まったイベントです。 ひきこもり経験者の発言や演奏、親御さんのコメント、支援者の活動報告などがありました。(許可なき撮影や録音が禁止されていましたので、レポートも最小限にします。)



質問時間に、私から次のような趣旨の質問をしました。

 お聞きしたいのは、精神医療審査会のような機能の必要についてです。 ひきこもり支援は、いまだ制度的整備が進んでおらず、行政の認知が及ばない中で、3年前には死亡事件が起こりました。
 それぞれの支援団体はたいへん個性的ですが*1、ひきこもっている人は、完全に孤立した状態で集団の門をたたくことになりますので、団体が単にバラバラにあること、何の監督機能もないことに、つよい恐怖があると思います。 へたをすると、相談先の団体に取り込まれてしまう。 そこで、相談する側が圧倒的に弱い立場に立つことの多い引きこもり支援について、審査会のような機関は設置できないでしょうか。
 いま申し上げたのは、支援対象者を守るためのお話でしたが、じつは支援団体の代表やスタッフが、ひきこもり経験者からひどい目に遭わされ、ひたすら耐えているケースも複数伺っています。 また、これまでに様々の自助グループが日本各地で試みられましたが、その多くがトラブルになり、活動が破綻している。 私自身も、自分で立ち上げと維持に尽力したサークルで、トラブルを体験しています(参照)。 ですので審査会というのは、支援者を守るためにも、また自助グループの最低限の安全を守るためにも、必要だと思います。 「駆けこみ寺」的な機能も含めて、検討することはできないでしょうか。



これに対し、精神保健福祉士かつ社会福祉士のかたからは、「団体間の連携でお互いに支え合う」、「国家資格を有する支援者については社会福祉協議会がある」*2というお返事をいただきました(大意)。 そもそも「審査」は、強い権力を帯びた機能であり、支援の思想的内実まで規定しかねないものです。 各団体の試行錯誤とそれへの「チェック」の関係自体について、継続的な議論が必要と感じます。


コーディネーターの小林剛氏(武庫川女子大学大学院教授)は、パネリストのNPO代表の方々に発言を求め、それぞれにお返事をいただきました。 詳細は記しませんが、基本的には楽しい集団生活の中、支援者側が危険な目に遭われたり、あまりに理不尽かつ一方的にすべての責任を負わされたり、ということも多いようです*3。 ▼そうした議論の中で、「精神科医によるスクリーニング」「フィルター」という言葉がありました。 これは、支援団体に受け入れる前の段階で、加害性の強い対象者を見分ける必要をおっしゃったのだと思いますが*4、次のような点が気になります。

    • 事前のふるい分けだけでは、支援をめぐるトラブルが、「問題のある個人」の特異性に還元されることになる。 受け入れたあとにも、「ふるい分け」以外の問題意識が働きにくい。
    • むしろ、日常的に継続すべき配慮や、集団でのミーティング*5が中心課題ではないか。 「ふるい分け」だけでは、支援する側もされる側も、日常的な苦しさが扱えず、(スタッフ側も)一人ひとりが孤立してしまう。

内閣府の「ユースアドバイザー」への言及もありましたが、それがどういう思想に基づくのか、審査会と呼ぶべき機能があるのかなど、いまだ疑問は残ります。 現在続いている国会には「青少年総合対策推進法案」が提出される予定ですが、この法案に、審査会機能を盛り込むことはできないでしょうか。


在野活動の自主性や多様性を維持するために、国との関係はないほうが好ましいということは理解しているつもりです。しかし、そのような「自由を確保する」活動が、国の事業との緊張関係の中に置かれるべきではないでしょうか。単に集まっただけの団体は、容易に閉鎖的な党派に化けます。以前かかわりをもった就労系の集まりでも感じたことですが、自分たちの集団へのチェック機能をどう導入するかということに、最大の課題を感じます(すぐに閉鎖的になる)。また、「反体制的」というのは、じつはそれ自体がひどく硬直していて、参加メンバーに強い順応を求めます。人の集まりの中で最弱の立場に立たされやすい「ひきこもり」系の人は*6、順応そのものをめぐる臨床的配慮をもたない労働運動系の集まりには参加しにくい。ありていに言って、ひきこもり支援と、就労をめぐる当事者運動との間には高い壁を感じています。
そこで、労働運動とひきこもり支援が別々にあるのではなく、「集団への配慮」において、同じプロジェクトになっていかないと、臨床的に連続性のある取り組みになりません*7。 必要なのは、団体としての個別党派ではなく、プロジェクトや配慮としての協働性です。 持続的な「集団への参加」において、臨床的な趣旨を共有できるかどうか。 これはそのまま、内ゲバ問題への取り組みでもあります。


私はここで、支援活動への審査機能を提言しているのですが、それは逆に、「国による関与のしかた」を継続的に検討する場にもならないでしょうか。単に団体を監視するのではなく、むしろ審査活動への参加を通じて、「人の集まりをどう運営するのか」というメッセージが作れないか。――これこそが、ひきこもり支援の側から社会全体に投げかけるべき問いであるように思います。そうでないと、既存社会のあり方はそのままに、「とにかく入ってこい」という話にしかならない。ひきこもり支援において、「人が集団に合流するあり方」そのものが問い直されています。


今回のイベントでは、20代の支援対象者がほぼ「子ども」として扱われ、それが会場にいる全員から当然視されていたことに、やや違和感がありました。現状の関係維持には仕方ないのかもしれませんが、このままでは、お互いの関係を問い直す活動が根付かないまま、ただ「全面的に受容する」という状態で固まってしまう不安があります。 私が個人的にそのような関係に耐えられないということもありますが*8、そもそもこれでは、社会のほかの活動とのつながりが作れません。 支援対象者は、いつまでも「子ども役割」に監禁されるわけにはいかない*9

逆にいえば、「支援される側」に固定されるとは、支援する側どうしの力関係や、彼らが用意する解釈枠に介入できないということです。そこで、自分の立場を固定したうえで(たとえばルサンチマンにこり固まって)暴力的に「反体制」になるのではなく、さまざまな立場の「境界線上」で考えること、それを通じて「どう介入するか」を検証し合うことが必要ではないでしょうか。
どういう立場をとるのであれ、身近に参加する集団では、「ずっと永遠に承認された立場」はあり得ないはずです。――家族との関係においても、同様に。



*1:そのぶん対立も多い

*2:【追記】: 兵庫県では、サービスへの苦情等は「兵庫県福祉サービス運営適正化委員会」が受け付けるとのことです。

*3:これは、ほかの地域の支援者の方々からも、繰り返し聞かされる体験談です。

*4:それ自体としては、どうしても必要な配慮に思えます。 石川清氏が指摘されていることですが(参照)、我慢することでトラブルを避けようとするタイプの人が、手当たりしだいに責任を転嫁するタイプの人と同席してしまうと、被害を言えないまま激怒をため込み、突発的な刑事事件になりかねません。 集団内の関係のあやうさは、剥き出しの暴力とはべつの部分にもあります。 ▼このエントリーで提案している「集団での検討会」は、こうした “人格障害” 系トラブルへの処方箋でもあるはずです。

*5:医師でいえば、症例検討会

*6:「あいつは引きこもっていたんだ」という差別も(残念なことですが)あります。

*7:労働が問題になった瞬間に、党派活動に慣れた組合系の人たちの独壇場になるだけです(若い世代まで含めて)。

*8:自助グループ的なつながりでも、「当事者どうし」という自意識系の関係では、窒息してしまいます(労働運動系であれひきこもり系であれ)。

*9:「子ども役割」は、じつは不当なまでに特権化されたポジションでもあり得る(参照)。 お互いの役割関係は、リアルタイムに組み直し続ける必要があるし、それは臨床上の要請でもあります。(※掲載後、一部修正)