「日本語の生産態勢」*1は、文法だけで論じられるものではない。 同じ日本語を使っていても、べつの「倫理=制度」が生きられ得る。
生きられた言語のプロセス*2において、正当化のスタイル*3はどうなっているか。 その意識されざる態勢が、中間集団のあり方を決めている。 結果物である集団や日常生活がある形をしているとして、その制作過程をこそ主題化しなければ*4。
ひきこもり臨床では居場所や仲間の重要性が語られるが、論者自身のつながり方*5が問われなければ、自分だけメタに立つことになる。 「つながり」をメタから観察する者は、固定された発話スタイル(コスプレ的な役割設定)でみずからのつながりを営んでいる。 ⇒「読み合わせ」が必要だ。
私は、中間集団の制作過程を話題にできる(起きたことを素材化できる)つながりを必要としている。 ここでは、「つながり」そのものの恒常性ではなく、お互いの関係を素材化することの恒常性が求められている*6。 そこでしか、お互いがフリーでいられる「つながり」がない。 この要請には、時代も国も関係ない。
中間集団の当事者性を拒絶する、知識人的なメタ言説について
- 現状を「環境管理」「○○の時代」などと命名するとき、その論者の生産態勢は、メタ的内容を目指して固定されている。 「つながりの社会性」を論じる学者は、社会学の生産態勢でつながりを形作る。 ▼社会学は、価値評価から距離をとることを標榜しているが、社会学自体が価値を認められなければ大学で職を得られず、中間集団を形作ることができない。 各人は、その言説行為の標榜において正当化事業を遂行している。 「社会学を語れば正当化できたことになる」という暗黙の了解は、それ自体が暴力的なナルシシズムの温床であり得る。
- 内藤朝雄には、べき論だけがあって、中間集団の制作過程論がない。 いじめの禁止や「他者のリベラリズム」で PC(Political Correctness)を維持し、周囲がそれに同意する形で集団がつくられる。 しかし、内藤自身の中間集団の制作過程やそのスタイルは、検証されることがない(参照)。