結果物のナルシシズム

「制度分析は、実定法との関係でどう可能か?」(参照)だけでなく、法的思考や裁判過程そのものが、みずからの制度順応についてアトリエ性*1を含む必要がある*2。 過去に作られた制度である法システムに対して、「現在の生きた火」である労働力はどう順応するのか。 結果物としての判決文は、どう生産されるか。 ▼いま進められている裁判員制度は、制度を硬直させたままそこに市民を巻き込むだけなら、制度順応との関係にある臨床的要因を無視している*3


裁判員制度かわいいキャラクターで宣伝されることは、流通過程(メディア効果)とは別に、生産過程(参加の手続きや作法)から考える必要がある。 これはありていに言って、「制度が硬直しているから、キャラクターやだらしなさでフレンドリーさをアピールする」でしかない*4。 自分はカルト的に居直っており、市民に対してはナルシシズムを丸ごと肯定するか、全否定して見下すしかない*5。 ▼社会参加を呼びかけるのに、結果的にうまくいった(内部化された)制度順応を誇示する*6という、「結果物の自己宣伝」しかない*7。 呼びかけられた側は、「ナルシシズムの相互肯定」でしか参加できない。 転移の関係性に、「内側からの手続き」がない。 参加の手続きが、「順応と嗜癖」しかない。 内側から取り組んで換骨奪胎する、という作業が許されていない。 監禁された役割しかない。



関連メモ

  • それまで交流のあった支援者・学生・ひきこもり経験者らとの違和感を言葉にできるようになるにつれて、私はその理不尽さに怒りを覚えるようになった*8。 それを分節して説明したところ、逆に彼らが不適応を示した。 彼らは、「ナルシシズムの相互承認」という奴隷関係しか知らない。
  • 10代半ば(1984年)*9まではかなり熱心なオタク文化消費者だった私が、その後の作品や雑誌にすっかり幻滅したのは、《結果物のナルシシズム》への嫌悪と言えるかもしれない。 自意識を逃れたくて作品やゲームに向かうのに、そこで「結果物の自意識」にしか出会えない苦痛。 キャラクター(結果物)への同一化には、「ナルシシズムの制作過程」しかない。 社会参加の作法が、最終的な結果物のナルシシズム*10に支配されている。 論じ手も臨床家も、そして支援される側も、そこに居直っている。
  • 芹沢俊介など、一見リベラルに見える論者は、解釈内容という結果物によって個別のひきこもり体験を覆い尽くすことを目指している。 解釈内容の「覇権=ナルシシズム」を目指す領土主義。 ▼実存を無視しているように見える「情報環境論者」たちも、解釈内容の覇権をベタに目指しているだけという意味では、上の世代と変わらない。 動かしようのない「環境」について生態学を語れば、自分のメタ語りは覇権を得られる、というわけだ。 しかし、そう語る論者たち自身が、ある人たちの制度順応を難しくする「環境」そのものだから、「環境であることにおける当事者性」を免除されるわけではない。




【追記】(1月23日)

「結果物のナルシシズム」は、たんに道徳的・政治的にまずいのではない。 人の努力の過程を支配し、ひきこもりをもたらす直接のメカニズムとして問題化している。 本人は “自由に” 努力しても、その発想は最初から状況の申し子になっている。
みずからが嗜癖ナルシシズムを邁進しながら、同時に引きこもりの研究家や臨床家であるというのは、解離的なマッチポンプと言える。 本人の言動がひきこもりを生み出す環境メカニズムを強化しているのに、その同じ人物がしたり顔で「ひきこもり臨床」を論じている。 その発言の「内容」のみならず、その人物の「生産態勢」が、ひきこもりのメカニズムに加担している*11
この解離を問題化できる言語を獲得できるまでは、「自分で自分の首を絞める」というやりきれない事情に気づくことができない。 努力すればするほど硬直していくことになる。



*1:「アトリエ性」は、三脇康生の表現。 私はここで、精神医学・美術批評・教育学で試みられている「制度を使った方法論」を、法的・政治的取り組みとして考えようとしている。 ひきこもる家庭内や支援現場に取り組み直すには、法的・政治的分節がどうしても必要だ。 これはそうした現場が、違法性の領域に足を踏み入れていないかという危機意識でもある。また、法的手続きへの違和感は、自動的に政治意識となる。

*2:制度分析は、フレーム内在的な分節過程という意味で、自分の順応しているフレームに対してまで制作的であり、ある意味では制度逸脱的ともいえる。

*3:逆にいうと、これを機会に法的過程が《つくること》になり得ないかどうか。 「正当化」のプロセスが、単に形相的ではなく、質料的要因をもち得ないかどうか。

*4:斎藤環がオタク趣味を誇示し、ルーズな支援者を評価するのと同じ。 「私は厳しくありませんよ、ルーズなのがいいですね〜」という笑顔は、自分が内部化されたつもりになっており(ナルシシズム)、みずからの思考スタイルを分析しない。 「幼児性やだらしなさの肯定」は、PC的アリバイ作りになっている。 ▼臨床的介入の要因を無視し、「多様性の肯定」をアリバイにするリベラリズムにも同様のロジックがある。

*5:宮台真司もこのパターン

*6:たとえば斎藤環は、ひきこもる人への呼びかけを、カフカの門「内側」から行なっている。 『ビッグイシュー』「52号」「105号」を参照。

*7:順応を目指す過程は、「成功した結果物」からさかのぼって丸ごと肯定される。 それは「嗜癖」か「修行」でしかない。――すべてが、「成功した結果物のナルシシズム」に支配される帝国。

*8:関係を分節できなければ怒りも湧いてこない。 「理不尽さ」は、言葉にされなければ気づかない。

*9:東浩紀によれば、アニメ文化じたいが1984年を分水嶺にしているらしい。 cf.『郵便的不安たち# (朝日文庫)』p.241

*10:要するに「売れた商品」。 宮台真司が持ち上げた「女子高生」などのパッケージングは、すべて「結果物の輝き」のかたちをしている。

*11:ひきこもる本人は、まさにこの「解離的なマッチポンプ」をやっている。