新刊: 『「ひきこもり」への社会学的アプローチ』 (序)

ueyamakzk2008-12-23

【参照:(正)

「ひきこもり」への社会学的アプローチ―メディア・当事者・支援活動

「ひきこもり」への社会学的アプローチ―メディア・当事者・支援活動

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2002年に始まり、合宿も開かれつつ続いた研究会の成果とのこと。 短く言及して終わらせるべき本ではないので、できればとにかく入手して、この本と格闘してほしい。 私はいま読み進めている。 今回は、この本全体の趣旨にかかわると思われるところを一部だけ引用してみる(強調はすべて引用者)

自己言及的なフィールドワーク

 なぜ(略)筆者は、「ひきこもり」について〈社会現象〉という表現を用いるのか。それは、「ひきこもり」という曖昧な言葉をめぐって、この間に沸き起こったさまざまな議論や支援活動などの諸々の実践、そしてそれらに何らかのかたちでかかわった多くの人々の経験こそが、「ひきこもり」そのものであると考えるからだ。「ひきこもり」とは、ある一時点での静止画像でもなければ、その時点から特定の過去に遡及するだけの現象ではない。むしろ、「ひきこもり」という問題が認識されて以降に生じた広範な社会的プロセスであり、その意味で〈社会現象〉という表現がふさわしい。 (略)
 ある「社会問題」の存在やその意味内容は、対象として想定された「客観的な社会的状態」によって自ずと証明されたり規定されてくるものではない。常に「そのような状態」として言明し、「問題」として取り上げ、さらに公的な対応が必要であると訴える語りや活動がなければ、何ものも「社会問題」とはなりえない。ならば、「社会問題」とは、“問題化”にかかわる異議申し立てなどの諸活動と不可分であり、さらにいえば「そう語られたもの」としかいえない。この視角に従えば、理科系の科学者であろうと、彼ら/彼女らは「ある状態」について特権的に正統・正確な知識を有し、それを開陳しているにすぎない、ということではまったくないということになる。むしろ、「ある状態」を社会的コミュニケーションのなかで意味あるものとしつつ、それについて特権的に語る地位を獲得することに邁進する一つの政治的行為者・勢力となる。
 したがって、「ひきこもり」についても同様であり、この概念が普及しつつ、内容を充填され、ときにそれが諸勢力の間で争われる、そうした過程を抜きにして、“それ自体”について“客観的”に論じられるわけではない。というよりも、この社会的・政治的な過程の総体が「ひきこもり」としかいえないのだ。それは決して狭義の政治的な場での議論だけではなく、一見、そうした政治的主張とは関係の無いようなさまざまな営み、例えば街の片隅に「ひきこもり」経験者の集う場を設ける支援活動や、あるいはある人々が自らを「ひきこもり」と規定しつつ語り、試行錯誤を重ねる、その諸々の社会的行為の集積として「ひきこもり」がある。(pp.6-8、荻野達史)

 本書には、執筆者の主張の間に微妙な緊張関係が見られる部分が残されたままである。しかしわれわれは編集にあたり、その緊張関係を解消する方向をあえてめざさなかった。むしろその相克を読者のみなさんにそのまま届けることに、「研究会」を母体とした「アンサンブル」としての本書の意義があると信じたからである。(p.290、編者)

ここには、論じているご自分たち自身をフィールドワークの対象にする姿勢がある*1
この意味においてこそ、社会学的な視線と、臨床的な視線とが対話を深められる。
何の反省もないメタ知識を臨床現場に持ち込んでも、“臨床的な取り組み” はない。


私はこの本を、最も切実な問題関心との関連で論じておきたい。 そこでしか論じようがないし、この姿勢こそが、本書のいう「ひきこもり」に決定的だと思うから。 漠然と「ひきこもりをどうにかしましょう」などと論じても、論じる者が自分の役職上のルーチンをこなしたに過ぎない*2。 世に溢れるそういうルーチンワークをこそ、問い直さねば。

 引きこもる彼らを他者として眼差し「わかったつもりになる」のではなく、
 自身にもかかわりのある現象として考えだす (p.290、編者)

これは単に倫理ではなく、臨床的要請だ。 【12月26日追記】: 「自分も内向的だから引きこもるかもしれない」という自意識の意味で当事者性を要求しているのではない。将来にわたって引きこもる気配はなくとも、目の前の関係の営み方は全員にかかわる。生活圏を変える可能性は、「論じているあなたや私」にも問われている。


拙論を寄稿した『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』の方法的核心は、自分自身を含み込んだ状況への継続的な参与観察であり、そこでは「観察を行う自分自身」と、「その自分と現場との関係」そのものが分析の対象になる*3。 観察ミッションへの順応が何の疑いもなく固定され、《周囲とは別格の学者がシモジモの者を観察する》といった漫画的な(しかし多くの医師や学者がそう勘違いしていそうな)一方的目線は許されない。

「当事者発言をやめてメタ語りする」のではなく、当事者発言そのものを分析労働にし、政治化する

ここでは、関係者すべてがみずからを当事者することが問われている。
学問の事業が、学者の当事者性に免罪符を出すことはない。
支援において、「ひきこもった者」を当事者と呼ぶ文脈は必要かもしれない。 しかし、中間集団のもんだい*4が決定的である以上、私たちはお互いが《環境》の一部であり、その意味でつねに当事者なのだ。 相手とその場の雰囲気によって、私の “コミュニケーション能力” は変化する。

    • 東浩紀氏の「環境管理と動物化」という議論は、この点でどうしようもない。 氏の議論では、「管理される環境があって、そこに棲息する動物がいる」というのだが、私たち個人の一人ひとりは、お互いに《環境》でもあるのだから、各人の目の前の努力によって、お互いに生きやすくなる可能性がある。 どうすれば楽になるかは、(左翼が想定するような)大文字のイデオロギーで決めるものではなく、リアルタイムの分析が必要になる。 ▼「私も動物的だ」と東氏が言うとき、彼は「迷惑をかけることになっていても、私はなにも改善努力をしないよ。私はこのままの態勢で生き続けるよ」と、中間集団のレベルで言ってしまっているのだ*5。 これでは周囲は、身近な環境に取り組み直すことができない。 東氏の言説は、まず中間集団内での居直りを容認している。 そしてこの傲慢さは、東氏だけの問題ではない。 ひたすらメタ言説を振りかざして社会生活を送ろうとする学者や知識人すべてに言えることだ。 ▼そもそも、「環境管理と動物化」と言っているその東氏は、「環境」だろうか、「動物」だろうか(環境も動物も、そんな発言はしない)。 そこでは東氏の言説だけが、解離的・状況追認的に神のポジションを独占している。 読者たちはその東氏を読むことで、自己矛盾的な特異点語りナルシシズム追体験する。――これは、メタ語りの当事者性への居直りにあたる。 臨床的に重要なのは、こうした「嗜癖的当事者性」か、「目の前での分析的改編」かの区別であって、メタか、ベタかではない。 「メタか、ベタか」は、自意識のゲームにすぎない。 実際に迷惑を受ける側にとってはどうでもいい*6



「健全な学者や医者がいて、その観察対象として病んだ考え方のひきこもり当事者がいる」のではない。 むしろひきこもる人は、主流派の医者や学者と同じ考え方をしている。 目の前の関係を無視して、メタなアリバイ作りに逡巡を続けているのだ。 身近な関係は、事後的にメタから解説されることはあっても*7、身近な関係そのものとしては放置される。――ここでどうしても必要なのは、「場所を協働で問題化する」ことだ*8。 そこでは、誰も観客席に居直ることは許されない*9


単に “医療化・福祉化” しても、苦痛メカニズムに取り組んだことにはならない。 それが単なる役割理論への還元なら、むしろ問題化の放棄にあたる。 留意すべき違いは、「医療化するかどうか」ではなくて、自分たちの参加している場のロジックを対象化できるかどうか――そこにある。 それさえ出来ていれば、場所が病院であるか労働現場であるかはさほど問う必要がなくなる(病院であってもかまわない)*10。 人が病んでいるというよりも、場所に機能するロジックを誰も問い直すことができない、その嗜癖的な社会参加こそが病んでいるのだ。 ひきこもりを問題にする側が、自分のいる場所や役割を問い直していないのでは話にならない。



「ラベリング」から、問題化の権利へ

第9章 「ひきこもり」と社会的排除樋口明彦*11より:

 本章では、「ひきこもり」を、ある特性を備えた個人が取り得る行為類型という視角からではなく、個人が抱えるさまざまな課題とそれに対応する社会サービスとの相互関係という視角から再構成することにしたい。社会保障(所得維持)・保険医療・教育・住宅・ソーシャルワーク・雇用など、若者に関連する社会サービスの不在という視点からひきこもりを照射することによって、「ひきこもり」という現象に固有の問題を浮かび上がらせることが狙いである。(p.245)

 社会サービスと隔絶しがちな「ひきこもり」の存在は、社会的排除という枠組みにおいて理解することができるかもしれない。1990年代以降、ヨーロッパの社会政策の文脈において広く普及した社会的排除という視座は、現代社会における不平等の諸相を、所得の多寡という「一面的指標」ではなく、職業機会の有無・教育程度・ジェンダー・世帯状況・地域環境・健康状態などの「多面的指標」から捉え、単なる「静態的な状態」ではなく、そこにいたるまでの「動態的なプロセス」として描き出した。このような認識の変化にともない、不平等を克服する新たな政策指針として、社会的包摂、つまり現金や社会サービスの単なる「給付」ではなく、むしろ排除された人々が再び社会に参入できるような「参加」のモチーフが提示されるようになったのである。(pp.262-3)

 日本における「ひきこもり」の現状は、社会的排除と家族的包摂が奇妙に共存する構造から成り立っている。ただ視点を変えれば、このような日本の若者をめぐる構造は、若者の社会的排除の潜在化、やや修辞に過ぎる言い方をすれば、社会的排除社会的排除と表現できるのかもしれない。 (略)
 いまや、ラベルからエンタイトルメントへと、「ひきこもり」をめぐる争いの場を移すときではないだろうか。そのときに初めて、社会サービスの不在という「ひきこもり」を取り巻く現状を批判的に問い、新たな政策指針を導き出す指針も開けてこよう。(p.265)

    • ラベルとは、「ひきこもり」「ニート」「○○障碍」など、人を分類するレッテルのこと。
    • エンタイトルメントは「権原」と訳され、「ある行為が正当とされる法的根拠」のこと(参照)。

ここで樋口明彦氏が語っておられることは、「カテゴリー化か、発言機会か」という私の呼びかけと響き合う(参照1)(参照2)。


第9章には、関係省庁が連携できていないひどい状況が記されているが、そもそもが領域横断的な苦しみなら、悩む本人たちが自分で問題を再構成して、そこで交渉主体になるしかない。――考えてみれば、それがそのまま社会参加のチャレンジにあたる*12
親の会を中心にした現在の動きでは、政策対応を求める利害当事者はあくまで「親や家族」であり、悩む本人ではない。 それゆえ、「親の負担」こそが支援対象であり、頑張りはじめた本人側の努力は支援対象ではない。 現状のまま話が進んでしまえば、制度化される支援事業は、「診断ラベル」にもとづいた医療的・福祉的なものに限られてしまうのだ。


本書『「ひきこもり」への社会学的アプローチ』は、社会学者たちの言説構成の作業場を示した。 この本は、支援がどうこうというよりも、ひきこもる本人たちへの挑戦状であると考えたほうが、提示された趣旨にかなうと思う。 彼らは彼らでやってみた(何年もかけて)。 では、苦しんでいる本人たちの側は? 学者以上の執着心をもって、自分のいる場所を問題化できないだろうか。


参照(正)へ続く】


*1:学者がひきこもりを「観察する」だけの、見下した目線とはちがう。

*2:それは、「客観的にひきこもりを論じた」ように見えて、実は論じる者の私的事情を押し付けただけだ。 論じる者の制度順応のためには、そういう論じ方が必要だったというだけで、ひきこもりそのもののディテールを論じたのではない。

*3:まさにこうした趣旨をもった労作として、十川幸司来るべき精神分析のプログラム (講談社選書メチエ)』がある。 斎藤環氏は、こうした作業への要請をこそ拒絶した(参照)。 十川幸司氏と斎藤環氏の比較は、そのまま引きこもり臨床論になる。

*4:「人間関係」

*5:これはそのまま、ひきこもる人の居直り発言にあたる。

*6:これと同じことが、差別問題に取り組む左翼活動家の差別発言にいえる。 反差別をメタ的に確保した彼らの差別発言は、「ネタだ」というのだろう。 とんでもない。 彼らの発言は、単に差別だ。 この問題は、弱者支援のいちばん根本に居座っている。

*7:斎藤環による「関係性」論

*8:cf.『医療環境を変える』p.232

*9:ここでだからこそ、法的に確保されるべき権利や自由が問題となる。 法の役割の一つは、「自由を保障すること」だ。 【参照:「法の社会的役割と基本的価値の理解のために」(PDF、田中成明)】

*10:自助グループ的な集団であっても、「自分たちの参加している場のロジックを対象化」できていなければ、そこは修羅場になり得る。 「お互いに同じ当事者」という意識ゆえに、容易に鏡像地獄になる。

*11:しつこいように繰り返しておくが、この樋口彦氏は、『「準」ひきこ森―人はなぜ孤立してしまうのか?』『崖っぷち高齢独身者』の樋口彦氏とは何の関係もない。

*12:ややダジャレめいた言い方になるが、「政策に意思表示を試みる、制作的な社会参加」。 もちろん意思決定に「参加できる」ことは、いわば投票権の確立であって、「思い通りになる」ことではない。