「結果的恩恵」よりも前に、「プロセスへの参加」が必要なのでは。

全体会で、私は次のような質問をしました。

 KHJは「親の会」ですが、支援事業を考えるにあたって、ひきこもった本人たちの意見を取り入れる仕組みがありません。いきなり意思表示を求められても、最初は幼稚なことしか言えないと思うし、特権化するべきではないと思います。しかし、意見を取り入れる仕組み自体がないというのは、まずくありませんか。



今回の大会では、深刻さを極める事例について、「病気・障碍圏の扱いを求める」ことが一つの焦点になっていました。 明白に病気や障碍の診断を受けられる事例には、既存の専門家にも対処法があり、社会保障もあります。 しかし「社会的ひきこもり」の場合、メカニズムの定義上は病気・障碍ではないにもかかわらず、状態像としては社会的能力を失っているとしか思えないため、議論が紛糾します。


明白に病気・障碍圏の方にとってすら、問題は単なる再分配だけでは済まないはずですが(苦痛はプロセスとして、社会的に構成されるのですから)、病気・障碍圏ではない「ひきこもり」に、原理的に意思表示を許されないポジション設定をすることには、父権主義的な無理を感じます。 そもそも社会的ひきこもりは、再帰的な自意識をメカニズムとしますから、役割に囲い込んで環境世界にタッチさせないことは、単に政治的にというより、“臨床的に” 間違っている。


ひきこもりでは、親子間のコミュニケーションがうまくいっていないケースが多いのですが、支援事業において、その家族内の対立が反復されている印象があります。 お父様方を中心に膨大な予算を組んだところで、ひきこもる本人たちは置き去りかもしれません(ニート支援事業は、すでにそうやって数百億円を無駄にしました*1。 本来は、こうした事情にひきこもる本人の政治活動が対抗すべきですが、その力量がないことと(だから引きこもっている)、この問題で親子間対立することそのものが、不毛すぎます。 親御さんは、本人たちが元気になりさえすればいいのですから。


社会参加は、「恩恵を得ること」ではなくて、意思決定過程への参加であるはずです。 ひきこもっている人は、それができないからこそ追い詰められる*2。 意思表示ができ、そこで戦えるようになれば(順応できるようになればではない)、それはすでに社会参加の道に就いていることになります。 幼児のように囲い込んでしまっては、本人たちがあとに続けられる取り組みになっていません。 持続的な社会参加とは、単に優遇されることではなく、他者たちとの交渉関係の継続だからです。


そもそも、親や国の都合で作られた支援事業には、ひきこもる本人たちの責任がありません。 自分たちの意思表示と関係なく決められた事業ですから、失敗しても責任を問われない。――逆にいえば、“当事者たち” に支援案を訊いたところで、それが意義深い案になる保証はまったくありません。 「本人たちに訊けばOK」ではなくて、責任や意思表示の手続きが必要なのであり、その上で “揉める” べきだと思うのです。


政治過程に組み入れられても、説得力を発揮するには勉強しなければならないし、集団的な意思決定においては、自分の意見はほとんど通らないでしょう。 しかし、それがどうしても譲歩できない紛争であるならば、これ以上に効果的な去勢機会はないはずです(参照)。 去勢は、内発的な紛争を通じた政治的な体験であるからです。――それが臨床的な配慮とともに、家族内にも導入されるべきであるように思います(支援関係の交渉化)。 特権化や隷従化ではなく、交渉関係の成熟こそが効果的な臨床であり、そのための法的・制度的整備が必要だというのが、私の提案です*3


事業整備への意思表示ですから、それを “参政権” として語ることには、比喩以上の意味があると思います。 今回のKHJ全国集会では、全体会議のほかに分科会があり、私はひきこもった経験を持つ人たちを中心にしたセクションに参加しました(司会は川北稔氏)。 会議に不慣れな方も多かったと思いますし、各人は自分の都合や自意識にとらわれていて、なかなか収拾がつきませんでした。 しかし、それは実際の選挙等でも同じです。 必要なのは、いきなり支援対象者を特別扱いすることではなく、《過程への参加》を制度として整備することです。


日本では、一定の条件下にある者には、参政権(選挙権・被選挙権など)が認められません(参照)。 病気でも障碍でもなく、権利を万全に認められたまま社会保障(に準ずる支援)を受けられるとなったら、「ひきこもる演技」も横行し得るでしょう。 この支援の恩恵が、固定的な役割理論に基づくのであれば、診断の線引きはどうするのか。 また、完全にひきこもるなどして意思表示ができないなら、「成年後見制度」に準ずる枠組みが必要でしょうか。 あるいは「親と対等な一票」ではなく、最初は「4分の3票」として、状態に応じて権限を変化させる、など。――詳細なアイデアは政治や法の専門家にご相談するとして、ひきこもる本人の権限について、制度的な整備が必要です。 意思表示が「できる人」の背後には、膨大な「できない人」がいるという前提のもとに*4


結果的な恩恵(再分配)だけを考える方針には、“特権化” があるだけで、本人が自分で取り組もうとする契機がありません。 ここには、本人がチャレンジしようとする際の臨床上の方法論がないのです*5。 現状では、「ひきこもり当事者」という役割固定が、恣意的な特権化と差別的排除を招いており、政治的にも臨床的にも放置できません。 あるいは言葉を換えれば、政治的な環境整備が、そのまま臨床上の環境整備にあたると思います。(臨床を無視した政治ではひきこもる本人が置き去りですし、政治や法を無視した特権化では、不公正が過ぎます。)


冒頭に掲げた私の質問については、全体会終了後、複数のひきこもり経験者から、積極的な支持の声をいただきました。 この件については、各人がバラバラに意見表明していても、実際の動きに関わることができません。 ご賛同いただける方は、ぜひ具体的な意見表明に向けて、ご準備いただけませんでしょうか。 公共的なひきこもり支援事業は、これから1〜2年の動きで、大まかな枠組みが決まってしまいます。 意思表示のチャンスがあるとしたら、まさに今です。



《社会参加=当事者化》を趣旨とする、動態的な当事者論の必要

既存の社会学では、役割理論にデリケートな時間軸が入っていません。 誰かが病人や障碍者として “当事者” にされたら、その人はずっと「当事者」のままです。 しかし、社会的ひきこもりの支援に必要なのは、その “当事者” という役割そのものを、時間に応じて(適切な形で)変化させることではないでしょうか。――政治学にも法学にも社会学にも、そうした臨床的な視点がありません。
《過程への参加》を主題化する、動態的で臨床的な当事者論の詳細については、これから時間をかけて取り組みたいと思います。 それは、意思決定をめぐる具体的な制度設計にも関係するはずです。





*1:新設される支援センターのために予定されている予算案は5億円程度とのことで、やりきれません。

*2:臨床の焦点は《中間集団》にあるのですが、既存の医師・学者・知識人の言説は、この論点を完全に黙殺(というより排除)しています。 彼らは、自分が生きている中間集団のロジックを絶対に分析しないため、臨床上の焦点としても扱うことができません。 これは家族内や、ひきこもった本人たちによる自助グループでも同じことです。

*3:たとえば、今後「青少年育成施策大綱」に織り込まれる可能性が高い訪問という支援方法は(参照)、サービスの契約当事者が親御さんであり、サービス内容がひきこもる本人への働きかけの形をとる――つまり、契約主体とサービスの対象者が違っている――ことが多いため、法的には微妙な問題をふくむと思われます。 支援事業の法的整備にあたって、焦点のひとつです。

*4:今回の分科会では、ひきこもった経験を持つ方から、「街の支援センターの看板に『ひきこもり』と入っていたのでは、恥ずかしくて相談に行けない」という声があり、これを全体会で報告したところ、親御さんたちからは溜め息のような声が漏れました。 「ひきこもりという言葉はあまりにネガティブだし、差別要因にもなってしまう」という苦情は、私が積極的に関わり始めた2000年当時から、すでにあったものです。 「ひきこもり」という語そのものには、場面に応じての運用益が残ると思いますが(参照)、街中の看板としては、「社会参加支援センター」など、落ち着いたタイトルのほうが良いでしょうか。 実際ひきこもり支援には、領域横断的な取り組みが必要ですし、支援対象者を「ひきこもり」と異常視するだけでは、問題の根幹に取り組んだことにはならないように思います。 これは、診断カテゴリーのラベリング全般についても言える危惧です。 ▼支援センターの名称についてご意見がありましたら、私へのメールにてお伝えいただけませんでしょうか。――あるいは名称にかぎらず、何かアイデアやご提案がありましたら、ぜひお伝えください。 直接のお返事は難しいと思いますが、「KHJ親の会」を経由して、厚生労働省に(参考意見として)お伝えすることができそうです。 私のメールアドレスは、 ueyamakzk@hotmail.com です。 関連するご自分のブログ記事等をお伝えいただいても助かります。

*5:私が斎藤環氏の方法論に反対したのも、これと同じ趣旨です(参照1)(参照2)。 ▼ひきこもる人の差別的特権を交渉関係に投げ込む私の提案には、一部 “当事者” らの政治的抵抗もあり得るでしょう。