歴史的・身体的に生きられる《制度》

メルロ=ポンティ・コレクション (ちくま学芸文庫)』掲載、「個人の歴史と公共の歴史における《制度》」*1より(強調は引用者):

 《制度》という概念に、意識哲学の難点の治療法を探してみよう。 (略)
 主体が構成されたものではなく、制度化するものであるとすれば、逆に主体は瞬間的なものではなく、他者はたんにわたし自身の否定ではないことが理解できよう。ある決定的な瞬間にわたしが始めたことは、客観的な記憶として遠い過去にあるものではなく、引き受けられた記憶として現在にあるのでもない。実際はその間におけるわたしの生成の場として、その二つの中間の場所にあるのである。そして、私と他者の関係は、《あれかこれか》という関係に還元されることはない。制度化する主体は、他者と共存することができる。制度化されたものは、その主体に固有の行為の直接的な反映ではないし、すべてを作り直すことはないとしても、その主体や他者によって、制度化をやり直すことができるからである。制度化はまさに《蝶番》*2のように、わたしと他者の間にあり、わたしとわたし自身の間にあり、わたしたちが同じ世界に属することの帰結でもあり、保証でもあるからである。 (p.232-4)

同書の訳者・中山元による《制度》概念の解説:

 メルロ=ポンティは、コレージュ・ド・フランスの講義「個人の歴史と公共の歴史における《制度》」においては、この歴史としての身体の概念をさらに深めている。メルロ=ポンティが考えている《制度》とは、ふつうの意味での組織をもつ制度ではない。《制度》というのは、主体が何か新しいものを作り出すための前提であり、その可能性を規定するものである。
 画家の作品を例にとろう。新たに登場した画家は、それまで描かれた作品の蓄積のうちから、自分がなしうることと、なしえないことを学ぶ。作家はだれもが先人という「巨人」の肩の上にたって、最初の作品を作り出すという意味では、先人の作品によって、新しい制作が可能となる。しかし先人の作品は、「後に続く作品が自分と同じものになることをできなく」*3するものであり、新しい作品を制作するための前提であると同時に、障害のような役割も果たすのである。
 この《制度》は、歴史的な厚みを持つ伝統として、人間の実践を可能にするとともに、その方向を決定づける限定的な役割も果たす。この《制度》の両義的な役割に対して、作家は問い掛けを行なうのであり、そこから新しい歴史が生まれる。ここでも《制度》は人間にとっての《身体》のような意味をもつ。ブルデューが『実践感覚』で示したハビトゥスという概念は、この《制度》に近いものと考えることができるし、フーコーが『言葉と物』において提示した「歴史的なアプリオリ」という概念も、《制度》と同じような位置にあると考えることができるだろう。これらの概念はいずれも、《制度》としての身体のもつ意味を考えようとするものなのである。 (p.287-8)



私たちの労働は、つねに「制度のもとでの労働」になっている。 働くことそのものができないのじゃなくて、「制度のもとでの労働」が難しいのだ。
この議論を、労働環境論や、本田由紀らの制度的排除論と合流させる必要がある――「そういう労働論をすることで作られる中間集団がある」という自覚をもちつつ。(逆にいうと、「間違った考え方」であっても、それを語ることで可能になっている中間集団があるなら、そのまちがった議論にも「その語り手にとっての」意義がある。私たちは、制度的にそのとばっちりを受ける。)



*1:L'institution dans l'histoire personnelle et publique

*2:「ちょうつがい」

*3:同訳書 p.235