「雲の上から小便」――自分の中間集団の作法を自覚しない

私たちが、意識的に何か努力していこうとするときの、「こういう方向で努力していればいいんだ」という思い込みも、歴史的な枠組みをもつ。 「○○とは何か」を考えるときの発想法。目の前の上下関係。何をどうすることが「社会に順応している」ことになるのか、その集団的な思い込み。
知識人の言説がメタレベルに居直ってしまって、「雲の上から小便」*1になっているのも、お互いの関係を築く制度になっている。そう語る自分たち自身がどうやって中間集団を運営しているか、そこを誰も論じない。 「メタにうまく語れた奴」が支配することになっている。最初から「制度の下僕」的で、そうふるまうことしか許されていない。そこを問題化しようとすると「できないからだろう」とされてしまう。ひとつの制度しか思い描けない者は、それへの問題提起を嫉妬と考える。(偏差値が分かりやすい)


内藤朝雄は、テーマとしては中間集団を扱うが、「いじめはいけない」という正義命題が硬直していて、自分自身が手にできる動態的な方法論はもっていない。 読者としては、「生態学を知っている人間」として、メタ言説の語り手たちの仲間に入るしかない。
語り手本人がどうやって身近な関係性を運営しているか。ここを語らなければ、いくら「真剣に」社会を論じようとも、社会に参加できない人の問題を正面から論じたことにならない。 俗流若者論を攻撃したところで、「俗流若者論ってダメだよねー」「そうだよねー」の自己愛的中間集団が生きられるだけ。*2――そういう「雲の上」言説に、みんなが酔っぱらっている。





*1:太宰治斜陽』で、弟の直治の手記にあった言葉。

*2:同様に、「景気のいい時代には引きこもりやニートが減る」という言説は、そう語っている本人が、自分の中間集団の作法を検証せずに済むと思っている。