制度分析と法学(メモ)

制度分析をともなう「制度を使った方法論」では、単なる制度順応ではなく「適切な制度逸脱」が求められる。 しかしそれがお互いに影響しあう社会で、集団が運営される手続きはどうなるのか。 メルロ=ポンティガタリらが注目した《制度》という概念との関係で、法学的な整理が必要に思える。


三本卓也「法の支配と不確定性」(PDF)より(強調は引用者):

 アンガーの見解によれば,リベラリズム思想は,現在以下の2つの難点に直面している。第1の難点は,福祉国家の機能不全である。それは,伝統的な法形式主義的思考と,福祉国家化の進展にともない要請されるようになった目的論(purposive theory)的思考とが,リベラリズムの枠内では相容れない性格を持つことによる。前者からは既存のルールの順守が,後者からは目的達成のためのもっとも効率のいい手段の追求が要請されるが,両者はもともと相容れないものである。このためにリベラリズム法理論は,本稿の用語でいう「原理レベルの不確定性」の発生を避けることができない。
 そしてアンガーの診断によれば,この問題は,より根の深い第2の難点に結びついている。それは,リベラリズム心理学の不適切さである。リベラリズムが「政治」(同書では法も含まれる)にかかわる側面だけにとどまらず,このように「心理」(あるいは知識)の側面にまで広範な影響を及ぼしているというのが,同書におけるアンガーの注目すべき主張である。アンガーが指摘するのは,従来リベラリズムの内外の論者によって「はなはだしい距離感(the awareness of a radical separation)」として表現されてきたもので,たとえば自己と自然,自己と他者,自己とその役割・仕事の間の距離感がそれにあたる。
 そして,アンガーがこれらの感情を分析する際に軸とするのは,「統合失調(disintegration)」と「断念(resignation)」という2つの感情である。統合失調とは,リベラリズムなどの社会秩序がわれわれに要請する意識を共有しないために,「自己のさまざまな要素がばらばらになり,外部の世界,特に社会世界を嫌悪するようになること」をさす。他方,断念とは,「ある社会秩序に対して,その求めるところを内心では軽べつしているにもかかわらず,それに対して絶望的に服従すること」をさす。アンガーは『知識と政治』において,この統合失調と断念とを現代社会における感情問題の中心に位置づけているが,人間を,このように2つの相反する感情に直面する存在としてとらえるアプローチは,当初から現在に至るまで,アンガーが一貫して持ち続けているテーマだといえる。(p.74-5)



デリダ的な「Critical Legal Studies」(批判法学)に対して、ガタリ的な「Institutional Legal Studies」(制度論的法学)という言い方になるのか。 単なる解離に居直るのではなく、制度分析・分裂分析(schizoanalyse)を通じて「分析同士の出会い」を生きようとするガタリらの主張が、ここで意味をもちそうに思う。 そして、「法の不確定性」がすでに問題になっている。

 法の不確定性(indeterminacy)とは,「あらゆる事件について,弁護士や裁判官が,既存の法律や先例を用いて,完全に相反する帰結を導くことができる」状態をさすと定義しておこう。(p.65)




「疎外」のもんだいを、「最適化」に置きなおして理解できるだろうか。 しかもそれを、制度化のプロセスとして。

 ウリのいっている制度分析は、それが「institution(制度)」の生成に含み込まれているものだ、もしもフランス語で書くならばできあがった institution ではなく、プロセスとしての「institutionalisation(制度化)」として含み込まれているのだということを忘れてはならないだろう。そして、人間の基盤を終わりなくつねに創造し直す「場=institution(制度)」、それをウリは統合失調症の患者のために用意し、そこに関わる「正常」なスタッフにもへ参加することの喜びを知らしめようとするのだ。(三脇康生、『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』p.279)

 大事なのは、知らないうちにものごとが決まっているという状況なのです。これのことを私は「決定の機能(fonction décisoire)」と呼んでいます。ある一人の人物が偉そうに、自分が決定権をもっている人間だといった形で決定されるのではなく、知らないうちにものごとが決まっていく。そういう決定の機能が非常に必要なことなのです。(ジャン・ウリ、『医療環境を変える』p.34)

集団的意思決定の手続きを決めておかなければ、かえってそれは疎外の地獄になるはずだ。 ノイズだらけになり、最適化を目指しての試行錯誤ができなくなる。
「自由な議論」は、本当の問題から逃げるための防衛機制であり得る。 分析的介入と切断の線(line)が要る。 《制度》のもんだいを、「線を引くこと」、しめ出すことと理解する。 「しめ出すことがしめ出される」*1こととしての精神病。 「社会が精神病的になる」とは、なんでもありで、線が引けなくなってしまうこと、と理解できる。



*1:先日のシンポにおける合田正人の発表より(ジャン・ウリの発言として引用された)。 「しめ出す forclusion」は、ラカン理論では「排除」と訳され、精神病論の中核。 法律用語としては「時効による訴権の喪失」を意味する。 ▼合田氏は、ずっと《線》を問題にされているが(参照)、その講義を聴くことは、私にとって “臨床的” 効果をもつ。