日常そのものの責任

macska さんのエントリーより、メモ:

 …さんが最も問題としているものは、批評として発表されるべきものであり、裁判で争われるような種類のものではない。けれどもそれは、それが裁判で取り上げるほど深刻なものでないということではなく、むしろ「裁判に訴えることのできない、個々の主体による責任を法的に――単に現行法によってというだけでなく、法という概念によって――問うことができないような、日常化された暴力」こそ、より深刻であると考える。法は平穏な日常を前提として、それを乱す行為を取り締まるが、日常そのものが抑圧的であることに対して無力だ。
    『*minx* [macska dot org in exile]』、「ブクマコメント回答1:トランスセクシュアルの人に対する表記

    • 「批評」として発表すべきことと、「裁判」で争われるべきこと
    • 裁判に訴えることのできない、個々の主体による責任を法的に問うことができないような、日常化された暴力
    • 現行法によって責任を問えないというだけでなく、法という概念によっては、個々の主体による責任を問えないような責任
    • 法は平穏な日常を前提として、それを乱す行為を取り締まるが、日常そのものが抑圧的であることに対して無力だ。

何かを守ろうとしたり、何かを責めたりすることの《手続き》をひたすら考えるようになった。 「私は大事な話をしているんだ」と思い込む人間は、恣意的に他者を組み敷いてしまうことがある。日常生活はどうあがいても「責めあり」だから、すべての批判を手続きなしに受け入れようとすると自由が一切なくなる。逆に、合法的な役割順応だけでOKというなら、そこに含まれる抑圧や忘却を問題化できない。お互いに、関与と強制の手続きが要る。