新刊: 『医療環境を変える――「制度を使った精神療法」』

ueyamakzk2008-09-04

医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想

医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想



全体の構成が、精神科医らによる現状の報告・分析である《実践編》と、理論的考察を中心にした《思想編》に分かれており、私は中間部の座談会

 制度という論点をめぐって*1  「第2節 制度を使うとはどういうことか」

に参加。 それに関連して、以下の短い論考を二本、寄稿させていただいています。

  • 「場所を変えること」と、「場所を替わること」
  • 「制度を使った方法論」とひきこもり

同書に寄せた自筆プロフィール:

 上山和樹(うえやま・かずき)。 1968年生まれ、フリー。 10代より不登校・ひきこもりを経験し、「当事者」という立場を分析しながら発言を試みている。 1980 年代以来、社会参加できない若者は、治療対象になるべきか、全肯定されるべきかで対立を生んできた。 いずれの場合も「当事者」は、支援の枠組みに働きかける権限を持たない。 甘えとして否定されるか、社会批判の参照項(アリバイ)として不当に特権化されるか。 しかし社会的な逸脱や排除は、それ自体が「関係の膠着」として成り立っている。 役割固定は、臨床的・政治的に有害であり得る。 必要なのは、支援や扶養の場自体を論点化し、関係者の全員を交渉当事者にすることだ。 いわば動態的な当事者論としての「制度を使った精神療法」は、ひきこもり支援に「応用される」というよりは、最初からそれ自体がひきこもり支援の形をしている。




本書の趣旨を説明するというのではなく、いち参加者としての理解や質問について、記してみます。



本書は、支援対象者を含む関係者全員にとっての、《内側から創ること》を主題にしているのだと思います。 シニカルな制度順応ではなく、動態的な当事者論であり、実存と制度との関係を問い直すことであり、継続的な脱洗脳であり・・・・。 私はこうしたモチーフの、ひきこもり問題への重要性を疑っていません。 明示的にひきこもりを論じていない箇所でも、その苦痛のメカニズムは、つねに主題化されていると思います。――支援関係の硬直がもたらす臨床上の害悪、継続的な社会参加の困難、「どうしても “入門” できない*2」ということ・・・・。


気になるのは、今後この社会に生きる人たちが、どういうスタイルでの社会参加を目指すのか、あるいは本書のような企画が、そこにどう関わってゆけるのか、ということです。 知識人の多くは、「議論しても現実は変わらない」と論じているし(参照)、むしろ “お客さん” 的に、観客席に居直ろうとしているようにも見えます。 ベタな制度順応の解離的乱立と*3オタク的な消費文化しかないのであれば、わざわざ実存と制度とのかかわりを考え直したりすることは、冷笑の対象にしかなりません。

本書で参照されるドゥルーズガタリの考え方は、環境管理にすべてを明け渡すようなシニカルさの対極にあります(というより、まさにそのことが問題になっている)。 じつは「ポストモダン」とは、分断化した非人称的社会を条件としつつ、自分のいる場所をそれぞれが分析し、リアルタイムな改編を続けていこうとする取り組みだったのではないか(その分析の同時多発性をこそ「ミル・プラトー(千の高原)」と呼んだのではないか)。 本書から浮かび上がってくるのは、そういう主張です*4。 今回は精神医療を主題にしていますが、この問題意識は、教育や労働の現場など、《この社会に順応すること》全般を俎上に載せています。 「大きな物語の喪失」を前提にするからこそ、ベタな相対主義やシニカルな制度順応ではなく、現場的な*5自己分析と、その連携が必須になる。 そこにしか適切な《順応》の試行錯誤はないし、思想など知らなくとも、優秀な支援者はいつの間にかそのように取り組んでいる――そういう議論なのだと思います*6


素晴らしい可能性を秘めた考え方だし、私は今後も取り組みを続けるつもりです*7。 しかし、それが他者との協力の中でしか成り立たない活動であるからこそ、無視できない疑問もあります。――具体的な呼びかけや力関係でのつまずきを、どう考えるのか。


「順応のあり方」そのものを考え直そうとすれば、シニカルな制度順応者や、自分の短期的利害を最優先に考える人とは、対立関係になります。 あるいは同僚たちの倫理的野心が、ベタな制度順応の形をしているかもしれない。 よしんば「制度を使う」という趣旨に賛同してくれても、結論が各人で違っていたら・・・? 具体的な職務遂行のための意思決定は、どうなるのか? 制度そのものに疑いをさしはさむのであれば、一つの決定の強制力は、どうやって担保されるのか。(あまりに流動的になってしまうか、気まぐれな権力行使になりそうです。)

また、自分の置かれた状況を真摯に受け止め、徹底して分析を続けようとする作業は、それに取り組む者をおそろしく受傷的にします。 なにしろ、自分の状態に “居直る” ことができないのですから。 いっぽう、自分のミッションを確信し、何の疑いも持たずにシゴトに邁進している人たちは、圧倒的に強力な存在ではないでしょうか(ベタな制度順応は、体制を味方につけています)。――本書で私が参加させていただいた座談会や論考では、以上のような問題提起を行なっています。


ナルシスト御用達(ごようたし)の、いきなり雲の上から小便をしたがるような知的言説がはびこる中で、本書の現場的な問題意識は、間違いなく臨床的な意義を持ち得ると思います。 しかし、これだけシニカルな “動物化” が進展し、皆がゴリ押しの自己満足に浸ろうとしているのに、どうやって身近な人に、自分の問題意識を説明するのか。 支持が得られなければ、「制度=権力」*8に疑義をさしはさむ問題提起は、あからさまな排除と弾圧の対象になるでしょう。 これではこの方法論の提案は、強圧的な政治運動への「オルグ」みたいになってしまう。

制度を分析し、「制度を使う」ことは、ルーチン化した仕事(生きて働く権力)に対して、介入的に振る舞うことだと思います。 つまりそれは、あからさまに「権力を拮抗させる」振る舞いになる。 だとすれば、目の前の制度順応者以上の権力を持たなければ、無力ではないでしょうか。 ▼体制側の権力は、その行使にあたっての適正手続が求められますが*9「制度を使った方法論」では、介入のための適正な手続きというのは、何にあたるのか。 ものすごくベタな、「言葉を尽くした説得」以外にないのでしょうか。*10


実直な制度順応や権威主義を生きている人は、思想的にはさまざまな批判が可能でも、この社会のルール(法律や雇用契約)には従っています。 そこに介入して、制度分析や「制度使用」を要求することは、ていねいな合意や支配の手続きを踏まえるのでなければ、それ自体が債務不履行や、相手の権利への侵害行為になりかねない。

「制度を使った方法論」では、各人の順応事情を問い直すことが求められるのですが、どうしてもそういう問い直しを考えてくれず、権威的な威圧を繰り返す人については、どう対応するのでしょうか*11。 ひょっとするとこの方法論は、「マルチチュードの良心性」に期待しながら、結局はルサンチマンに潰れるしかないような、ミーティング活動へのロマン主義なのではないか*12。――こうしたことを地道に検証するのでなければ、「プロレタリア独裁」を叫んで手続きを検証しなかった、ダメな新左翼みたいにしかならないと思います。(「制度を使った方法論」と言いながら、支配や制度との付き合い方をちゃんと考えていないことになる。)*13


ひきこもり臨床に即して言うならば、こちらの呼びかけに一切耳を貸さずに居直ったり、不可抗力のまま引きこもり続けるしかない人に対して、どんなアプローチがあり得るのか。 本書にあるような取り組みや問題意識は、実際の苦痛臨床に有益だと思いますが、けっきょくここでも、「どこまでの介入や支配が、どのような適正手続のもとに許されるのか」という問題が残ると思います。(これはむしろ、「制度を使った方法論」を通じて、より鮮明に見えてきた現実です。) ▼「このまま死んでもいい」と思っている人にとっては、周囲への絶対的な拒絶を続けることが、交渉上の最善解かもしれない(参照)。 ここではやはり、臨床上の意義とともに、交渉・契約に風通しをもたらすための《手続き》が求められています*14。 居直り的に扶養を強要することは、それ自体がまさに「強制=暴力」であり得るのだから、あとは策を尽くした合意形成か、「強制力を行使するための手続き」の周辺で、努力を続けるしかない*15


繰り返しますが、私はこの「制度を使った方法論」が、ひきこもり問題に有益であることを確信しています。 しかし、そうであるがゆえに、疑問点もつねに確認したい。 逆にいえば、そうした問題意識(n−1)をつねに機能させることが、本書で問われている「制度分析」であり、「制度を使う」ことなのだと思います。

私は最近、斎藤環さんやひきこもる人に、「ご自分の順応問題を置き去りにして、観客席にいるのはやめてほしい」と言ったのですが(参照)、ではそういう私自身は、どうすることが本当の意味で「自分の問題を引き受けた」ことになるのか(公私のそれぞれにおいて)。 私は、本当に自分自身に「-1(マイナス1)」を機能させられているのか。 私自身が、硬直したルーチンワークの中にいないか。――そもそも今後の社会において、シニカルな制度順応以外があり得ないのであれば、いわば「脱洗脳」を続けようとする本書のもくろみは、邪魔なノイズにすぎなくなります。 《社会順応》そのものをめぐる問題意識も、意味がなくなる。 本当にそういうことでしかないなら、なんというか…、八方ふさがりです。

臨床にとっても、ひとつの職場環境にとっても、もっと大局的な社会の状態にとっても、「やみくもに制度順応しようとすること」が、かえって破滅的な状態を招くことになる。 今はそういう信念で、ノイズとしか見られない分析に賭けてみるしかないし、私はもう、そこでしか人のつながりを作っていけないと感じています。 硬直した思い込みを共有してはしゃぐだけの関係は、私にはもう無理です。 そういう「無理」という症候的な感覚にこそ、状況を変えるチャンスが潜んでいると思う。 私は本書に、わずかばかりの、しかし最も必要と思われるたぐいの、可能性の芽を見出しています。



【関連メモ】

    • 内的な疎外と「制度的な硬直」を関連づけ、分析のプロセスと「制度を使う」ことでそれらを回避しようとするものなので、この呼びかけ自体が内的疎外をもたらすようではどうにもならない。 とはいえ、「この話を理解できればいきなり疎外が解消される」ということではない。 結果として掴まれた真実ではなく、分析や試行錯誤という《取り組みのテーマ》が呼びかけられている。
    • 分析のないところに分析を、硬直した制度順応しかないところに別の可能性を探そうとしている。 各人が自由にそれを目指すということは、力関係の抗争は活発化する。 このような試行錯誤を導入したことで、かえって混乱したり、交渉力がなくなったと感じる者は、融通のきかない優等生的な制度順応のほうを好むだろう。(幼児性は、むしろ制度順応にこそある)
    • 再帰的チェックと恒常性の、バランスやタイミング。 これは、「伝えるべきテーマ」であるだけでなく、この取り組み自身がパフォーマティブに注意すべきポイント。 数学的真実の伝播のように、「真実を言っているのだから、受け止めないのはお前が悪い」とふんぞり返るのではなく、伝達の過程にも、「バランスやタイミング」の配慮が要る。 伝達過程に配慮しないとすれば、この取り組みは自分の言っていることを自分で裏切ることになる。 《伝える》というプロセスを生きることそのものにおける制度分析が要る。
    • 「領土化する権力」に対して、脱領土化の権力、反復する分析衝動の権利が問題になっている。 とはいえ、そういう症候的な取り組み自体が、一定の領土や手続きを必要とする。




*1:論点ひきこもり』というタイトルに関連付けて言えば、この本の趣旨は、《論点としての医療環境》、あるいは《医療環境の論点化》なのだと思います。 一度変化させてしまえばそれで終わりということではなくて、継続的に運営される、恒常的な《論点化》が要請されている。

*2:趣味に、学問に、人間関係に、そして社会に

*3:「シニカルであるか、実直であるか」は、実際のふるまいがベタな順応であるかぎりは、どうでもよいことだと思います。 問題は、一つひとつの順応が解離的に乱立していることです。

*4:編者である三脇康生の解説を参照した。

*5:あるいは「当事者的」な

*6:単なる連帯の呼びかけは、古色蒼然たる「オルグ」になる。 分断化した社会において、連帯のイデオロギーだけを押し付ける欺瞞。 「私たちは仲間だ」と、にやけながら肩を組む暴力。 ▼「連携のためには、その条件として制度分析が必須である」「分析の課題とプロセスにおいてのみ連携する」というのが、本書の立場だろうと思いますが、これは孤立の危険に身を晒すことでもあります。

*7:私自身は、《順応》や《当事者性》をつねに主題化しています。――本書にいう《制度》は、「順応」や「当事者性」を考え直すキーワードになる。 またそれは、直接的に「差別」を主題化するものです。

*8:反体制の活動集団においては、「反体制の活動イデオロギー」それ自体が《制度》と言える。活動イデオロギーへの疑義は、「自己批判の強制」や「粛清」を招き寄せる。反体制の小集団にも、れっきとした制度=権力が機能している。

*9:応用憲法とも呼ばれる、刑事訴訟法がわかりやすい。 実体法上は明らかに「犯罪」が成立している場合ですら、捜査の過程に違法な手続きがあれば(適正手続を満たさない限りは)、有罪にはできない。 つまり私たちは、適正手続によるのでなければ、「有罪=逸脱」とはされない権利を持っている。 ▼左翼系の集団や社会が暴力的になることについては、「適正手続」の観点から理解できないのでしょうか。 手続きなしに「自分たちは正しい」なら、権力の濫用に歯止めがなくなってしまう(参照:「共産主義黒書」)。

*10:ややシニカルに聞こえるかもしれませんが、郵政民営化小泉純一郎)や、首都大学東京をめぐるいきさつ(石原慎太郎)、裁判員制度の導入などは、制度改編を通じて事態を変えようとしたという意味で、巨大なレベルでの「制度を使った」事案と言えないかどうか。 これらの方針に反対するなら、具体的な《手続き》が必要ですが…。

*11:実際に私は何度も直面しています。

*12:現場での意思決定をめぐって、合法的、伝統的、 カリスマ的という「正当性の三類型」(ヴェーバー)が、検討課題になりそうです。

*13:フロイトラカン派の精神分析の文脈では、これは「学派」の形成や、臨床場面における「技法論」の問題になると思います。 たとえば分析家は、句読点の打ち方によって、分析面接の場を支配する。

*14:手続き論そのものに臨床的な効果があるといえる。

*15:人命尊重を至上命題にするのならば、役割を固定して差別的・特権的に扶養してあげるのも、合意形成のうえでの選択肢になり得ます。 ▼本書掲載の拙論(p.244)でも触れましたが、私は斎藤環氏を批判しているものの、斎藤氏の提出している臨床上のアイデアには、「制度を使う」ことに相当すると思われるものが、いくつもあります。 ex.「地域通貨」、「下宿人を置く提案」、「遺言状の勧め」、「家庭内暴力における避難のタイミング」、など。