「順応するためには、順応するな」

順応しようとすればするほどできなくなる、と感じている私にとって、「順応したいと思うなら、順応しようとするな」というのは、なまなましい意味を持つ。 順応するための臨床に、政治的分析*1が必要だと思うのは、そういうことだ。 大文字の政治的主張が先にあるわけではない。

 政治的なものはある意味で、容認された慣習や秩序だった原理との断絶/への挑戦という点でつねに「誤り」である。 この意味で、政治的公正は、政治的なものの次元を排除する、さらなる(退行的な)試みを印づけていると言えるだろう。 (『ジジェク自身によるジジェク』p.32、グリン・デイリーによる序文より)

単なるアリバイ作りでしかないような、politically correct(政治的に公正)な主張は、それによって「自分は順応できている」ことにしてしまう。 すると相手も、その儀式に従わされる。 自分の順応スタイルは正しいと頭から思い込んでいる側は、その場の順応スタイルを支配してしまう。


儀式型の社会参加にするのか、協働で試行錯誤するタイプの社会参加にするのか。


周囲が分析的な(=政治的な)あり方を認めない時には、ひたすら順応するしかなくなる*2。 すると、順応の成功率は落ちる。 分析なしにひたすら没頭するような、嗜癖を待つしかない。
単に役割を固定して「順応していることにしてしまう」*3のは、自由な試行錯誤ではなくて監禁だ。――監禁されたほうが生き延びる確率が上がるという判断だが、この場合、周囲は「扶養する役割」に監禁される。



*1:どうやって自分たちは順応してしまっているかへの分析

*2:周囲の人間は、私が順応するための「環境」だ。これはお互い様。

*3:ひきこもりの「全面肯定」