症候的に回帰する労働としての、順応分析

環境を与えられたように見えても、順応できない。 「単に順応」しようとしても、どうしてもこの点に帰ってきてしまう。 「社会的排除」はマクロな政策課題だが、順応をめぐる苦痛臨床はマイクロ・レベルの課題になる。ここに失敗すれば、マクロに用意しても無駄になる。


「語っているお前はどのように順応しているのか、どのように順応を目指しているのか」。 これを事後的に考え直してみるのが順応分析。 順応のありようを論点化してしまう心の動きこそが、私にとって避けられない症候だといえる*1。 心の動きの身体的なもの。 その分析は人々の順応ナルシシズムに抵触するために、つねにトラブルになる。 運動に取り組んでいる人は、自分のその順応が問題含みであり得るとは思わない*2


自分の順応様式を当然視する人は、それを周囲に押しつけている。すでにうまくいった自分のやり方を疑い得るとはつゆも思わず、自慢はしても分析はしない。暗黙に、同じフレームに入ることを要求している。 自分の様式を当然視するところには、《順応》に関する臨床的問題設定はない*3。 論じている本人にとって、《順応》が自分の問題と自覚されていない。いきなり大文字の「社会問題」がある。問題を扱おうとするときの、既存の順応スタイルを踏襲して悦に入っているだけであり、その順応様式そのものが生んでいる問題かもしれないということに気づかない。問題構成における自分のスタイルの共犯性=当事者性に気づくことを拒絶している(抑圧・防衛)。 ジャンルそのものへの問題意識が排除される。


順応分析による社会参加があり得るのだと気づくところで続けられる社会参加がある*4。 そのような形の社会順応がある。自分のしてしまった失敗をつねに検証できる、むしろその「検証」にこそ誠意と社会性を見ること。自分と相手を含む「場所」を他者化し(参照)、自分たちの生きてしまった事情を分析すること。


現代社会においては、社会性は「商品化」に近づく。 失敗は、単に「売れなかった」ことでしかない。 「物神化に失敗した、神であることを目指した自意識」。 嘲笑こそが失敗への対処*5。 商品化では、「売れて初めて何が求められていたかがわかる」*6。 それゆえ、生きられた事情への反省は「売れなかった」ことに対してのみ発揮される。 売ろうとするフレームは絶対であり、「売ろうとすることそのものによって起こってくる問題」に対しては、問いを提起してはならないことになっている(共同性のフレームが固定されている)。 フレームそのものへの問題提起をしても、「売れるものを作れないからだろう」と言われてしまう。 これでは、「売ろうとする自意識」そのものによって起こる問題に対処できない。


サービスの受け手も、「買い手」という自意識しか持てず、自分がどんなフレームに順応しているかを分析する、その分析による関係共有を知らない。ただ諦めるか、ただわがままを言うしかない。関係の作法がそれしかない。うまくいかない場合には、「古い道徳を復活させましょう」。 ▼自分たちを素材化して分析する社会参加を知らず、「アリバイ作り」を共有する形しか知らない。


再帰的モニタリングの苦しさは、自分への問い直しが際限を持たないこと。改善の努力が監禁されている。現代の自意識は、フレームを問い直すのではなく、フレームを固定したままで「成功によるナルシシズム」を目指している。単なる嗜癖が生きられるとともに、嗜癖を目指そうとすること自体が嗜癖化している。嗜癖と、嗜癖を目指すことが解離的に孤立している。


問題の解決をもくろむ本人や支援者の意識が、問題の再生産装置そのものになっている。苦痛を考えようとする姿勢や方針が、苦痛のメカニズムそのもの。 努力の姿勢は、関係の中で決まる。順応の問題を自分の問題として考えてくれない人たちのあいだでは*7、何に順応しようとしているかの分析を許されず、適応が孤立した宿題になる。(cf.「適応指導教室」では、すでに順応できた大人たちが、順応できていない子供たちを相手にする。大人たちは、与えられたミッションをこなそうとするだけで、順応事情そのものへの分析は、共同的な課題となっていない。)


順応がどんな思い込みを持っているかは、トラブルで明らかになる。――事後的な検証作業にこそ、勤勉さが認められれば。*8


自分たちの順応様式を分析せず、労働や闘争の共有に問いを含まない共-産主義。 それは領土化の押し付けでしかない(既存左翼)。 私は、正義や友愛のベタな共有ではなく、事後的な分析の協力をこそ待望している。 ▼あなたはどうして、自分の順応事情を分析してくれないのか。 なぜ、自分だけは素朴に存在できている、自分だけは正義だと思い込めるのか。(宗教とは、事後的分析の拒否だ。宗教を批判することで悦に入る左翼は、ご自分が宗教的意識形態にあることに気づいていない。)


雅子妃への「適応障害」という診断を、周囲の者は他人事として済ませられるだろうか。それは、彼女の苦しさへの共犯性を否認すること。(「適応障害」という言い方の、なんとも “他人事” な処理。 相手が適応できるかどうかは、こちらにもかかっている。私たちはお互いに、相手の「環境」だから。)


社会関係のコーディネーターより医療が権威として扱われるのは、実際上の必要からだろうか。不登校やひきこもりのように、医療的目線そのものが臨床的害悪であり得るならば、権威化の秩序を黙認することはできない(とはいえ、左翼のアリバイ作りでしかないようなベタな反精神医学ではどうしようもない)。 「医療」という目線の権威を物神化してしまっては、医療目線じたいが生み出す問題を検証できない。


「語っているあなたの血はどこに流れているのか」。 血を流さないために語っていないか。 防衛として語っていないか。


「どうすれば順応できるか」の事情は、時代と場所、仕事や役割で違っている。 これこそが相対性だ。 「どうすれば正しく存在できたことになるか」がバラバラであるとはいえ、逆にいえば、だからこそ「分析=読み合わせ」が必要になる*9ポストモダンの流行は、この点を致命的に履き違えている。 ベタな相対主義の称揚は、じつはそれぞれの価値観を分析なしに温存してしまう。(ex.消費文化への順応者は、商品ブランドやアカデミックな権威性をベタに肯定する。)



*1:現状では、制度を問題にした者こそが制度から排除されてしまう。

*2:雨宮処凛は『「生きづらさ」について (光文社新書)』の中で、右翼団体に入る10代について、それは一時的なごまかしかもしれないが、「ぜったいに否定しないようにしている」と言い(p.154)、あるいは映画『新しい神様 [DVD]』では、ご自分について「天皇に依存している」と指摘している。ここで雨宮は、自他の順応様式そのものを冷酷に突き放し、対象化して論じる姿勢を見せている。私が大事に考えたいのはこういう作業だ。大義名分を身にまとった多くの人は、その大義との関係を問われることに耐えられない。▼同じ雨宮による、「自分たちを全肯定する言葉」(p.181)という言い方には、事後的な分析を受け付けない「領土化=暴力」の危うさがある。

*3:この場合、「ひきこもり」を論じていても、順応臨床そのものは話題になっていない。自分の順応様式を無批判に嗜癖的に固定したままで、「話題」としてひきこもりを扱っているだけだ。▼左翼イデオロギーへの合流によって自分を無条件に肯定してしまうそぶりも、自分の順応事情をまったく分析しない。

*4:たった一人では、挫折するしかない。たいていの場合、分析はむしろ激怒を呼ぶから。分析こそが、日常的な社会生活から排除されている。

*5:宮台真司に典型的

*6:中野昌宏は、これを量子物理学の「観測問題」に重ねて論じている。

*7:知的・社会的課題にいきなり取り組むばかりで、「そういう反省なき順応そのものが問題ではないのか」とは考えてくれない。

*8:遡及的に事情が明らかになる「事後性」には、二種類ある。 (1)「すでに生きられていた順応スタイルが事後的に明らかになる」場合と、(2)「どんな順応を目指せば良いかは、成功してようやく分かる」という場合。 後者では、売れることが「象徴化」の成功にあたるが、売れるまでは順応しているかどうかが分からない。 順応していない(売れない)場合には、「順応を目指して」分析がされるが、順応を要求しているフレームそのものについては分析が許されない。そんな知的努力があり得るとすら思われていない。 ▼ひきこもりの場合には、「すでにどんなフレームで順応を目指してしまっているのか」が致命的に重要になる。 この事後的分析は葛藤を含み、政治的ですらあるが、この分析を欠いては、順応臨床は「嗜癖と役割への押し込み」でしかなくなる。

*9:私的会話での、三脇康生によるリオタール解説を参照した。