「場所の分析」に対する排除――自己愛の蓄積

私がこれまでに接した多くの人たちは、とにかく前向きに学問や趣味に順応できればいい、順応できればその事情について分析なんかしなくていい、むしろ分析なんかしたがるのはお前ができないからだ、という。
彼らのプライドは、「すでに順応できている」という自意識に満たされている。自分については、「実現できたナルシシズム」が満足げに確認されるだけで*1、何に順応しようとしていたのかは分析されない。

問題を本当に考えようとするならば、自分たちの順応事情を分節し、ナルシシズムを適切に棄損しなければならない。ところが彼らの思考は、場所を放置した順応のナルシシズムをこそ目指す。努力が巻き込まれている場所への分析(参照)は、「脱落者の自分語り」と見なされる。ゲームの固定そのものが生む問題は、顧みられない。

彼らは、失態を分析して反省するのではなく*2嘘とごまかしで「なかったこと」にする*3。 なぜあんな失敗になってしまったのか、それを素材にしてじっくり考えるのではなく、自分の取り組みは正しいに決まっているから、あとはそれに生じた傷を埋めてしまえばいいのだ、という態度をとる。人を露骨に見下しながら、「見下したのはなぜなのか」を考えるのではなく、「見下してなんかいませんよ」で済まそうとする――そして、同じ見下しを続ける。自分が実際にはどのように自分や他人を評価してしまっているか*4、それは絶対に分析されず、ただひたすら今の路線で成功とナルシシズムが追求される。資本蓄積を目指すような自己愛蓄積。



*1:公的活動が、ナルシシズムに奉仕している。こういう人間にとって、弱者支援は自己愛のネタでしかない。周囲の人間は、その自己愛のために利用される。自分自身も、「利用される」ことで自己愛に浸る。彼らは、商品的な「自己の差異化・物神化」を目指している。

*2:失態を通じてこそ、自分の何がおかしかったのか、何に順応しようとしていたのかが明らかになる。

*3:彼らにとって、社会化とは「嘘とごまかしの成立」なのだ。落ち着いた分析は、ようやく成功したはずの社会化(自己愛)を棄損するものとして忌避される。「失態をこそ分析しなければ」という提言は、何をしようとしているのかすら理解されない。端的に正義を語ればいいのであって、「自分の事情を考え直すことは、正義より劣る善でしかない」のだという。(善と正義の対比は、ロールズだ)

*4:何を順応とみなし、何を社会性とみなすか。たとえばある者は、「個人の社会化」を、「商品が売れる」プロセスと同一視する。つまり、象徴化されるとは、売れるということ。売れた瞬間に、「何が社会性であったのか」が確証される(物理学の観測問題が参照される)。ここでは、象徴化を「売れるか売れないかのゲーム」に還元することの問題は考察されない。 ▼東浩紀の郵便論は、「物理的に届いたものがすべて象徴的に受容されるわけではない」「受容によって遡及的にシステムが明らかになる」という事情を見ていただろうか。――彼らの議論には、目の前の関係への分析がない。お互いの要求している「社会性のあり方」への分析と改編が欠けている。「売れるか売れないか」「届くか届かないか」だけが問題であり、みずからの受容のスタイル自身は無反省に肯定されてしまう。商品購入者の、嗜癖的な購買意欲のように。