「コネクションズおおさか」開設記念イベント 聴講

  記念対談:「若者の支援の現在、社会的な支援のあり方についてPDF

参加者は、ざっと見て二百数十人。


開設記念イベントなので、「前向きにやっていきましょう」という感じなのは仕方ないと思うが・・・。
玄田有史工藤啓は「ゆるやかな絆(Weak Ties)」の話で、いつもと同じ。 Weak Ties を目指すこと自体は正しいと思うが、それが「正しすぎる精神主義」みたいになって、目の前の関係を批判できなくしてしまう危険を感じる。 活動のディテールに分析を試みる動きが、共同体を破壊する迷惑行為として排除されてしまう雰囲気がないか。*1
支援について具体的な話をしていたのは斎藤環。 私は斎藤を批判しているが、斎藤以外の関係者とはディテールに踏み込む話ができない。


斎藤環の発言より(大意):

 若者支援の最もクリティカルな問題は《動機づけ》にある。
 親御さんは「兵糧攻めで追い詰めれば動機づけられるだろう」と思うかもしれないが、ひきこもっている人は追い詰められれば消耗するだけ。 動機づけにいちばん大事なのは、信頼と安心

働くことしか考えられないご本人やご家族の意識をやわらげ、交渉関係を維持するには、固定的な役割理論で安定させる必要があるということだろうか。



イベントを通じた疑問メモ

  • 総じて、「個人の政治化」が主題となっていない。 ひきこもる人の抱える怒りや理不尽感が、どうして動機づけとして取り沙汰されないのか。 怒りが単に「逸脱」と捉えられていないか。 社会は戦争状態であり、ウソや嫌がらせに満ちているから、継続的な再復帰は簡単なことではない。 復帰したって、基本的には地獄なのだ。 理不尽感を否認すれば、従順さだけの人格が求められ、解離的な忘却が押し付けられる。 「カウンセラー」は、往々にしてベタな順応だけを推奨してしまう。
  • 社会から隔離された場所に「信頼と安心」を作っても、その場は誰が維持するのか。 「信頼と安心」の場を確保するにはバトルが要るし、その場を一歩出れば生きていけない。 また、「信頼と安心」と見える場に参加している人同士の間にも、嘘と嫌がらせが始まる。
  • 支援業界が、垣間見られるストーキングや嫌がらせに見て見ぬふりをするのは、間違っている。 これはひきこもり臨床に内在的な問題だ。 社会参加をするにあたっての大きな恐怖が嫌がらせやストーキングであり、孤立した人間ほど対応できない。 「支援業界には嫌がらせなんかない」という否認や抑圧が、Weak Ties を破壊していく*2。 ▼現状では、ストーカー被害や名誉棄損は、ロシアン・ルーレットみたいなもの。 何の対処もされず、「運が悪かった」に落とし込まれる。 場所のロジックそのものがそうした被害を悪化させている可能性は否定され、分析が排除される。
  • 人の集まりの場から政治的葛藤やミーティング(読み合わせ)を抜き去って、どうやって関係を維持するのか。 「雑談の苦手な人がいる」というが、政治性から隔離された場に会話など必要ない。 逆に言うと、会話は最初から政治的だ。 関係構築と価値観のあり方について、一定の作法を押し付けている。
  • 「役割の固定」が、問題意識のフレームを決めてしまう。 このフレームに順応することが「社会順応」になっていて、意識の道筋が決められてしまう。 私はこのことに最も激しく抵抗し、苦しんでいる。 フレームを決めてしまえば、そこでひきこもりのメカニズムが反復されても対処できない。 再帰性は、問題意識のフレームを固定すること(固定しようとすることの強迫化)とリンクしている。 「フレーム」こそがひきこもる苦痛の原理的焦点になっているのに、それを対象化しないでどうするのか*3。 ▼といっても、つねに役割を流動化させるのではなく、必要な時にはフレームを固定し*4、膠着すれば組み直す。 そういうリアルタイムの着手こそが必要であり、それが社会意識と活動の維持にあたる。 役割が固定されてしまえば、「信頼と安心」に浸っていい特権的立場に監禁され、その一人パラダイスを維持するために周囲が(役割を固定されたまま)奮闘することになる。
  • ひきこもる人を「観客席」に放置することは、たんに倫理的にではなく、臨床的にまずい。 理論と現場の関係をどうするかというのは、ひきこもり臨床に内在的な問題だ。――とはいえ、交渉態度を硬直させることしかできない親御さんには、むしろ柔軟な対応への期待を諦めて、「固定的な役割理論」を信奉させたほうがいいということだろうか。 ▼実はもっと気になるのは、扶養義務の問題だ。 「社会参加の能力がない」という役割を静態的に確保しないと、法律上の立場関係に問題があるのかもしれない。ここは法律的な議論が必要だ。 斎藤環は、「扶養義務がある」という理解でいる。参照:『ひきこもり文化論』p.164】
  • 結果的な状態像としての「順応」だけを見てはダメだ。 それでは、現状への大切な問題提起と、迷惑行為とを区別できない。 また、したり顔して「順応」している者は、実はひきこもりを悪化させる人的環境を生み出す張本人かもしれない。 「順応」しか頭にない人も、やたら「フレンドリー」にくだけるだけの人も、役割フレームへの分析を拒否する。 私は、こうした人たちの臨床上の害悪を問題にしている。
  • 役割が固定された場所では、「ひきこもり経験者」としての私は差別され、分析的な問題意識を排除される。 これでは、本人が「内側から取り組む」という、動機づけ論にとって最も重要な契機を扱うことができない。 そんなところで臨床論をしてどうするのか。
  • 私自身が、何をすれば「観客席」ではないのか、つねに問い詰められている。 剥き出しの裸の「当事者」でいることは、ストーキングや誹謗中傷の被害に遭いやすく、危険きわまりない。 「お互い当事者」というイマジネールな認識が、どれほど危険なことか。 この問題をきちんと指摘している引きこもり関係者がいなさすぎる。 「お互いライバル関係で競い合えばいい」とか、牧歌的なことを言っている場合ではない。
  • 再帰的モニタリングの強迫化を避けるためにも、仲間集団でのイマジネールな関係を避けるためにも、固定的な役割理論の問題は無視できない。 それは、単に知的にではなく、「臨床的に」誤っている。




*1:分析的に検討しなければならないのは、順応や関係性のロジックだ。 「社会参加」が、どういうあり方をしているかを検証しなければ、場所のロジックに支配されてしまう。 あるいは、場所に起こった問題に共同で対処できない(参照)。

*2:精神医療やその周辺では、ボーダー系や自己愛障害系の患者によってスタッフの信頼ネットワークが破壊される状況が、以前から問題になっていたようだ。

*3:ここで私は対立を先鋭化させているが、斎藤環が提唱するいくつかの支援案は、すでに家族内での《環境=フレーム》を問題にしている。 いわば、彼の臨床家としての提案が、理論家としての意識を超えている。

*4:斎藤環の固定的な役割理論は、固定局面のロジックとして、フレーム内で理解すればいいだろうか。