場所の分析

  • 制度への倒錯的順応主義*1フェティシズムではなくて、お互いの役割関係への距離と、体験されたトラブルの素材化が必要だ*2。 「今の世の中は制度順応とフェティシズムが支配しているから」と、それだけに頼ってみずからの社会参加をマネジメントする人が多すぎる。 東浩紀のいう「動物化」「環境管理」論は、こうした趨勢を追認するだけで、そこで起こる苦痛への現場的処方箋がない。 現場の時間と言葉の時間を、解離させてはダメだ。
  • 斎藤環ひきこもり当事者のブログ活動を肯定する仕方は、「アウトサイダーの作品活動」を肯定するのと同じ仕方だと思われる。 社会参加できない人間による、「作品との関係が変わらない、嗜癖的な没頭」を肯定すること。 これはきわめて危険な放置であり、臨床家の判断としては疑問だ*3。 斎藤のこだわる「去勢」という用語では、このあたりの危険を描出できない。 「言葉の作業で去勢されている、だからそれでいいのだ」としか言えない。 その指摘自身が、環境世界とは解離的な関係しか生きていない。 ▼制度と実存との葛藤や改編が、臨床上のモチーフになっていない。 斎藤自身がフェティシストとして制度内のアリバイを得たうえで、“アウトサイダー” を鑑賞している。 「何が制度内で、何が制度外なのか」という危機的な問いは、あらかじめ封じられている。
  • 硬直したパターナリズムと、その対極の「自己愛を追認する」方法論だけが蔓延している。 斎藤環は「もはや成熟はない」と、ベタなフェティシズムと自己愛を追認しているが、これでは成熟できない人間同士が同席することの苦しさはまるで扱えない*4。 鏡像的ライバル関係だけが追認され、社会参加にあたっての価値観は古いままに温存される。 それぞれの社会役割への嗜癖的没頭が、あいも変わらず推奨される。 ベタな制度順応を待望する支援言説は、嗜癖に頼る現状社会に対して、価値的葛藤をほとんど含んでいない。
  • 斎藤環はひきこもり支援について、「仲間ができるまでが自分の仕事だ」というのだが、まさにその仲間にこそ、嫌がらせと悪意の政治がある。 新しく作る集団にこそ、「どういう路線を選ぶか」の政治がある。 ▼今の社会には、商品的自己肯定のフェティシズムか、ベタな反体制しか見当たらない。 それを肯定し、「姑息にやり抜いた人間の勝ち」というのでは、ニヒリズム
  • モンスターペアレント」的な苦情を、“弱者” 本人が自分について言い始める。 対するスタッフ側は、自分たちを政治化するスタイルを持たない。 たんに教員や医師の権威を復活させるのではなく、協働でのディテール分析(体験の素材化)という政治が必要。 さもなくば、問題意識を持った人間が孤立する。 現状では、政治化はイデオロギー化のことでしかない。 また、一人ひとりの関係者が、自分の制度順応を対象化していない。
  • 社会参加の継続とは、個人の政治化の継続にあたる。 ところが現状では、メルヘンチックな相互承認があるだけで(「ありのままでいいんだよ」)、その関係自体が政治的葛藤を含むという自覚がない。 だから、すぐに「被害者ポジションのイス取り競争」になる。
  • 「自分を正当化する」作法の問題。 自分と自分の生産物を正当化するスタイルが、間違ったまま硬直している。 「ものを作る」という営みすべてが、何か間違ったところにはまり込んでいる。 私が斎藤環ほかを批判するときには、彼ら個人を通じて、「時代の無意識」みたいなものを批判することになっている。 途方に暮れる。
  • 証言を、政治的・倫理的のみならず、臨床的に理解すること。 フロイト的に個人化された証言ではなく、《制度化されたこの場所》の分析として、当事者的に。 場所の分析は、臨床上の課題なのだ。




*1:制度順応に快楽的に浸りこむことでなされる自己管理

*2:熊木徹夫『精神科医になる―患者を“わかる”ということ (中公新書)』にある、「症例検討会を検討する」参照。 単なる医療化の目線ではなく、自分自身をも対象化する、いわば政治分析的な「症例検討会」がどうしても要る。

*3:これは斎藤ばかりでなく、「当事者発言」と呼ばれるものを肯定する文脈全般の問題だ。 自分のことを問題にしているからと言って、みずからを “当事者的に” 分析できているとは限らない。 むしろ当事者性は、責任回避と嗜癖の言い訳としても持ち出される。 当事者性そのものへの依存的嗜癖があり得る。

*4:「かつての人間は成熟していた」わけではない。 単なる制度順応は成熟ではない。 成熟のスタイルこそが問われている。 私は、実存と制度との関係の問い直しを問題にしている。