雑誌『ビッグイシュー』 第98号 発売中

斎藤環さんと私の往復書簡 「和樹と環のひきこもり社会論」、今号は私で、『「自明の前提」の前に』です。
ひきこもりについての話を、いきなりメタ理論にしてしまい、お互いの目の前の関係を具体的に考えない――その意味で、解離的な知的ゲームにはまりこんでいるように見える斎藤さんに、なんとか反論しています。 斎藤さんから見ると、私はゲームのルールに従わない狼藉者なのでしょうけれど、私は、「そういうゲームルールを大前提にしてそこにはまりこんでいること自体がひきこもりを悪化させる」という話をしているわけです。


これは、「自分は○○の当事者だ」という言い方に閉じこもるか否か、ということにも関係します。
こちらで font-da さんが、往復書簡へのコメントをくださっています(ありがとうございます)。

 そして最後に、書き添えるのは、それでも当事者を降りて生きていく道を、私は推奨することだ。

今の私は、当事者性を Be動詞(属性)で固定することに抵抗しています(参照)。*1
それは、単に「降りる」ことでもない。 たんに降りるそぶりをすることは、ベタに「フレンドリー」に振る舞い、役割配分を「なかったこと」にすることでしかない。 それは、お互いの関係について分析を加えたことにならない。 私が「ひきこもり当事者」という Be動詞での名乗りをやめても、私は具体的な関係の中で、ある役割をそのつど割り振られます。 その時には、その都度そこで分析を起動させなければならない。 問題になっているのは、役割そのものというよりも、分析を起動させられるか、それを協働的に維持できるか否かです。
その意味で、死ぬまで “当事者” です。 当事者性を固定的に考えて、それを引き受けたり引き剥がしたりする人は、そう語る自分自身のリアルタイムの当事者性をほとんど分析しません。 動的な責任を考えず、Be動詞(役割意識)ばっかり。 そのことの暴力性を問題にしなければ。


私を攻撃する人たちは、私を攻撃することにおいてご自分がどういう役割を生きているかを分析しません*2。 たいてい、ベタに「支援者」をやっていたり、「上山以上に弱い犠牲者」を演じて、分析内容そのものよりも、私との役割関係に落とし込むことで政治的優位を作り出そうとします。 こうした議論は、私から属性としての当事者性を剥奪しつつ*3、それを語るご自分自身からも、関係者としての当事者性を奪っている。 Be動詞だけでお互いの当事者性を語り、役割レベルだけの話になっている。 私から「役割としてのアリバイ」を奪いつつ、ご自分はベタな役割に居直り、アリバイを得たことになっている。 あるいはまた、私から関係者としての分析的な責任の取り方(活動形での当事者的ふるまい)を奪いつつ、ご自分自身の当事者責任から逃げようとしている*4。 「弱者という存在を支援しているんだからこれでいいんだ」とか、「私は弱者だから責任を問われない」とか、自分のベタな役割演技に分析を加えず、「あいつはひきこもり当事者としては元気がありすぎる」などと、またしても Be動詞の当事者談義に終始する。 そういう議論は、傷や苦しみのディテールも、適当なルーチンで扱って終わりです。

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*1:私が「ひきこもり当事者」として固定されるなら、斎藤環さんは「医師」として固定されるでしょう。

*2:Be動詞の当事者性を話題にすればするほど、動的な当事者意識を欠いてゆきます。 ベタに「弱者=当事者」を名乗り出る人は、そこで安心してしまって、自分を「弱者=当事者」に落とし込んだ体験が何だったのか、そこで「当事者」として振る舞う自分がどう機能してしまうのかについて、まったく分析しません。 体験や現状の「下に入って(subject)」分析するという、本当に必要な当事者発言をしない。 どこまでも、メタ的な役割に居直るために「当事者」を口にする。 私は、そういう安易な落とし所に抵抗しつつ、かつお互いの役割設定を等閑視するのでもない「読み合わせ」を呼びかけているわけです(参照)。 それは、安易で暴力的な脚本に抵抗することです。

*3:そもそも私は、「半年以上 家族以外との親密なコミュニケーションを持っていない」という意味でなら、1999年以来、「ひきこもりの当事者」ではないでしょう。

*4:強者の側が、みずからの当事者性から目をそむける。 あるいは、「弱者支援」のイデオロギーを手に入れた者が、自己反省を拒否する。