「わかんないことはわかんない、だからみんなで考えていこうぜ、っていうふうにするしかない」*2と語る鈴木謙介は、メタ言説への居直りをやめている。 メタ言説を拒否した結果、放送では「自分語り」をしきりに反省していたが、これは単に当事者性に居直ることではなく、「自分の体験を素材にしながら、分析=分節を生きてみる」作業であり、語り手のアリバイ作りとは別の政治が試みられている。 メタ語りの権威ごっこに逃げるのでも、当事者ナルシシズムに浸るのでもなく、「自分の言葉を探す」*3作業を、ほかの誰かと共有すること。
この模索は、「体験当事者が、メタに語る」ことでもない。 自分の場所を対象化しつつ、体に刻まれたものを内側から分節してみることであり、結果的なテーゼよりは、協働での分節プロセスにこそ臨床性がある。 適切な分析のために、最深の実存が賭けられる*4。 きな臭い利害やメタ言説との緊張は、この地点から再組織される。
これは、単なる脚本順応(演劇的な“あえて”)でも、実存的な放言でもない。共同で試みられる内側からの創造であり、各人が自分の持ち分で取り組むしかない。ここからしか、政治的な交渉が始められない。虚無感とも戦えない。
八方手づまりの人には、こういう共同作業こそが必要なのだが、当事者責任が避けられる現状では、呼びかけを行なった人間こそが孤立してしまう。 単なる掛け声ではなくて、具体的な技法が要る。 【参照:「場所を変えることと、場所を替わること」】
以下、メモ的に。
- 単にメタに語る知識人だけでなく、単に当事者性を強調する人たちにも、強い暴力性を感じる。 彼らは、自他の当事者性を嗜癖的にアリバイ化するだけで、自身のリアルタイムの当事者性はまったく分析しない。 ありきたりな支援イデオロギーに従っているだけで、じつは当事者性を強調すればするほど、当事者性を失っている。
- 実存が内側から問題になっているところでは、単なるメタ言説や一般論は、語っている本人の当事者性を放棄している。 アリバイを作るためだけに語られるような言説。 自分のヤバい部分はまったく持ち出さない、だから処方箋もまったく書けない。
- 固定された規範や役割(属性)に寄りかからず、かといってそれを無視するのでもなく、取り組み方の試行錯誤そのものとして引き受けを遂行するようなやり方が要る(「読み合わせ」)。
- 番組パネラーの方々は、人のつながりのリソースをたくさん持っている(仕事・性愛・趣味など)。 それに依拠するだけの雑談は聞いていてつらいが、ご自分の現場性(当事者性)を分析的に語ってくださる語りには、こちらの分析を持ち分にして参加できる。 私は、そういう参加しかできない。 ▼体験や話題を共有できたからといって、連帯はできない。 私は、「同じ当事者なんだ」という属性レベルでの連帯を、もはや信じていない。
- 自己責任を語る柳瀬博一のほうが、ある意味で自分の “当事者性” を問題にしている。 いきなり一般化する語りは、自分が目の前で何ができるかを無視する。 とはいえ、自己責任しか語らないとしたら、それは自分が体験できた条件への分析を欠いている。――自らの当事者性を問題にすることが、同時にみずからを第三者的に対象化することでなければ。(被害者意識や、弱者支援のイデオロギーのみの人は、それを語る自分自身を対象化しない。)
- 赤木智弘は「希望は戦争」というが、必要なのは大文字の戦争ではなくて、「目の前での自分の戦い方」だ。
- 「交渉能力の極端な低さ」という、基本となるフォーマット。 自滅的な暴力は、交渉能力の低さから起こっている。 逆にいえば、交渉の問題であるかぎりにおいて、特権化する必要もない。
- 「なぜ人を殺してはいけないのか」は、問いとしてはどうでもいい。 大事なのは、「なぜ自分は殺さずに済んできたか」だ。 学者的なアリバイ作りではなく、自己検証の問題。
- 宮台真司は、期待された規範を内面化しない「脱社会」「非社会」について語っているが(参照)、むしろ問題はまったく逆で、「既存の規範に対してあまりに無力で、それに従う以外の交渉スタイルを知らない」ことが問題なのだ。 インストールされた規範に従う以外の精神活動を知らず、それが結果的に「非社会的」振る舞いに落ち込むしかなくなっている。 システムへの順応しか考えない「動物化」を言祝いで(ことほいで)いる場合ではない。