映画『紀子の食卓』



【以下、ネタバレ注意。 映画は15禁です。



  • 「あなたはあなたの関係者ですか?」
  • 「確固たる砂漠を生き抜くこと、それが役割です」



「自分はなぜこれを演じているのか」の意識が問い詰められる。
いま生きている自分は、その役割を「演じている」んだ。
――ひたすら自意識の話だが、この相対化は一度は必要。 それを思い出させてくれただけで、僕には観る価値があった。


いちど役割から抜け出したはずなのに、登場人物たちはまた定型的な《役割》に嵌まり込み、他人を役にはめ込むことでしか関係を作れない。 「あえて」演じることの照れ笑いでしか言葉を交わさない人たち。 役割そのものを対象化して論じる人が誰もいない。(そのことに逆にリアリティがある)


役割への惑溺ナルシシズム*1は、本当にくだらないけど、本当に危険。
冷笑的に「あえて」なんて言ってる場合ではない。


最後で登場する「誰でもない私」は、終着点ではなく、出発点*2。 関係への監禁から解放されて、具体的な試行錯誤が始まる。 「あなたはあなたの関係者ですか?」が、役割順応とは別の形で生き直される。


社会に参加するには、何らかの役を演じなければならない。 しかし、役に同一化すること、すなわち《洗脳されること》で社会復帰するのではなく、むしろ脱洗脳の営みそのものとして復帰すること。 「ミメーシス」*3とか「オタク化」*4とか、単に《洗脳されること》を目指しているかぎり、役割に同一化した和気あいあいの関係暴力から逃れられない。



*1:「キャラを演じる」「ロールプレイ」

*2:終着点にしてしまったら、「本当の私」というナルシシズムで終わってしまう。

*3:宮台真司の処方箋。 動機づけとしての、「スゴイものに感染すること」

*4:斎藤環の処方箋。 対象は何でもいいから(アニメでも漫画でも)、とにかく何らかの「惑溺」を生きられるよう勧めている。