役割固定のナルシシズムが、内発的な分析をすべて無化する

  • 「自分は○○で、あなたは△△」。 カテゴリー順応の中で、全員が静態的なナルシシズムを維持してしまい、その状況そのものを分析する話が誰にも通じない。
  • 支援対象者として囲われた者の発言は、支援者・研究者の「あたたかい目」に見守られる。 見守り、見守られる体制が、相互持ち合いのナルシシズムの体制になってしまう。
  • 役割同一的な発言だけが期待され、ほとんどの “当事者発言” は、主観的な告発や自分語りに終始する。 かろうじて試みられた現場的な分析までが、「自分語り」としか見なされない*1
  • 客観的に語る権限は、支援者と研究者にしかないとされる*2。 この文脈で「相手にされる」には、みずからが支援者になって実地経験を積むか、「学問ディシプリン」に則ってメタに語るしかない。 これでは、各家庭の現場が自分で取り組む契機がない。 また逆に、あるロジックでナルシシズムが成り立てば、あとはまったく分析が為されない。
  • 自分の足元からやむにやまれず立ち上げられる分析は、そのプロセスにおいて実存を支える。 ところがこの取り組み自体が、また「傲慢さ」と見なされる*3。 現場そのものから、自分たちのいる場所自体を問題にする分析が立ち上がっているのだという労働の契機が、まったく理解されない。
  • 「語られる側」をオブジェクト・レベルに監禁し、「語る側」は自分のオブジェクト・レベルを問題にしない参照)。 オブジェクトとメタを分けるこの構図自体が、意識をメタ空間に閉じ込める。 分析の労働過程が黙殺され、再帰性がループになる。 この構図に、ひきこもる本人の順応主義が加担する*4






*1:怒って話せば話すほど、「自意識過剰だなぁ」「傲慢なんだね」となる。

*2:支援対象者の努力は、内容もろとも「観察対象」に落とし込まれ、観察者のナルシシズムは分析されない。 《取り組みプロセス》の契機が、またしても黙殺される。

*3:「支援対象の分際で」 「批判的な問題提起は、傲慢な自己顕示か、浮世離れした哲学談義でしかあり得ない」

*4:自己肯定の成功する場所が、順応主義以外に見えてこない。