努力の文法と、商品経済

理解できないのは、語彙ではなくて文法が違う。 労働の文法が違う*1。 すなわち、みずからを社会化するスタイルが違う。 これは「現場の思想の違い」になる。 ある現場に参加することで、努力の文法を支配されてしまう。(内容というよりは文法の問題だ。左翼も、努力の文法を威圧する。)


自意識とナルシシズムを輝かせる文章が生産され好まれる。 人気の出る書き手は、読んで即座に自意識を輝かせてくれるタイプのものだ。 その人なりの突き詰めた形で、断言的に表象に閉じるスタイル。 かつての「ポストモダンっぽい」書き手たちは、“人文的逡巡” を残して見えたが、そのような書き手はもう受けない。 70年代までの近代主義に対しては書き手の逡巡は斬新でありえたが、主体の危機が浸透し、読み手が記憶喪失のまま端的に方向喪失の現代では、書き手の逡巡はもはや読み手にナルシシズムを与えない。


斎藤環の言説は、ひきこもりの苦痛に対してはマッチポンプの側面をもつ。 自意識への監禁で起こる苦痛を扱いながら、論じる作業がひたすら自意識に閉じてゆく。 表象分析のナルシシズムに読者を閉じ込める。 自意識解除の制度分析に取り組む私は、斎藤環をその閉じこもりから解放したいが、彼は出てこないように思われる(「ひきこもるのも一つの権利だ」と言いつつ)。 影響力のある言葉の使い手が表象分析に閉じることは、単に政治的にではなく、臨床的に害が大きい。 論じ手と読み手がナルシシズム共同体に閉じる生産体制は、商品経済としてはそれで良くとも、ひきこもりに取り組んでいることにはならない。


PC(politically correct)的に “弱者=当事者” を特権化するだけでは、優遇する側もされる側もナルシシズムに閉じて終わる*2。 それは、ナルシシズム自体が元凶になっている苦痛については、対処したことにならない。 これはひきこもりだけでなく、役割同一化のナルシシズムが元凶になる職場や人間関係の苦痛全てに当てはまる。
文化も産業も支援活動も、あらゆる取り組みが自意識・表象化・商品経済の枠内にある。 私の加担した “当事者” 特権化の文脈、それに『「ひきこもり」だった僕から』というタイトルも、ひきこもりを悪化させる自意識・表象化を助長している。



*1:転移の文法が違う

*2:同一人物において「優遇する側」と「される側」が同居していたりする(参照)。