プロセスの危機を忘却すること――静態的「カテゴリー化」

ここで補助的に、上記座談会の参加者もコメントしている以下の2エントリーを参照する。

「半数は精神薬理学的治療を試みるべき病態である」というのは、挑発的に書かれているのだと思うが、細かい分類以前に、それ自体としてはまったく不思議ではない。 以下、要点を引用しながら説明してみる。

 地域の精神保健の現場では、ひきこもりという言葉を使う際に文字通り「ひきこもっている」という意味しか込めず、わざわざ精神障害を除外したりはしない。 (hotsumaさん「ひきこもりの半数は精神薬理学的治療を試みるべき病態である。」)

私は、相互にまったく無関係の精神保健福祉センター2箇所から、「うちの全相談件数の7割ぐらいは、ひきこもりが主訴」という証言を得ている(スタッフによる、口頭での印象論)。精保センターは地域の精神保健相談の全般を請け負うところで、相談件数には統合失調症うつ病など、あらゆる事情が含まれる。その相談件数全体の7割は、ひとまず「ひきこもっている」という名目で持ち込まれる*1。――そうであれば、精神保健の現場で「わざわざ精神障害を除外したりはしない」のは当たり前であり、むしろ除外されては困る。


リンク先の資料PDF)を見ると、「ひきこもり期間中に精神医学的診断基準を満たしていた者は42・1%」とあるが、この調査の対象者には、最初からうつ病統合失調症内因性精神病)該当者は含まれていない。つまり、内因性精神病ではない「ひきこもり」事例のうちで、薬理学的治療が功を奏するのは「半数だけ」ともいえる。 ▼また、薬理学的効果は、ひきこもりのメカニズムを直接扱うのではなく、そこで体験される不安や強迫症状を緩和している*2。 二次的な症状に薬が効果的なことは斎藤環も指摘しているが(参照)、最も厄介なのは「ひきこもり」で主体が嵌まり込んでいるメカニズムそのもの(再帰性)であり、これに関連する主体の政治的な危機*3。 この危機は、ひきこもり状態を抜け出したあとにも、またひきこもりに至らない事例においても慢性的に持続している。
カテゴリー化と薬剤談義に終始するタイプの精神医学は、主体のヤバさを本人がどう処理するのかという作業場のモチーフを、「自分はどのカテゴリーだろう」というアイデンティティの葛藤にすり替え、主体が本来味わっている政治的葛藤を「なかったこと」にしてしまう*4。 カテゴリー化の発想自体が、「自分はどれだろう」という自意識の再帰性を強化しているし*5、そもそも薬理学の議論は、それ自体が政治的処理の選択肢の一つにすぎない。


こうした「作業場」のモチーフは斎藤環にもないが(参照)、しかし斎藤によれば少なくとも:

 私のこれまでの治療経験からすると、社会的ひきこもりに伴うさまざまな症状は、二次的なものである場合がほとんどです。つまり、もっとも持続する主症状が「社会的ひきこもり」であり、ほかの症状はその経過とともに出現したり消えたりすることが多いのです。斎藤環「ひきこもり」救出マニュアル』p.70)

だとすれば、「ひきこもりの半数は精神薬理学的治療を試みるべき病態である」というのは、不思議でも何でもない。むしろ、精神医学で支配的な生物学的目線においても、「半数は薬理学で対応できない」と見えている、そちらのほうが気になる(こちらの資料では、「診断無し」が46・6%と最も多く、「不明」15・8%)。

 ぼくは「ひきこもり状態」のうち I 軸障害を持たないものはそう多くはないと考えている。 (略) I 軸障害はしばしば見過ごされている。 (hotsumaさん「ひきこもりと人格障害の関係。」)

ここには、本人にとっての作業場の発想を欠いたまま、ひたすら「診断する」という目線がある。しかしカテゴリーで診断しなければならないのは、予防施策や社会保障、薬剤決定などの制度的手続きに関してであって、まずはそれ以前に、「本人の取り組みにとって役に立つ発想や情報」が必要なはずだ。 hotsuma 氏を含む多くの精神科医は、そこで「分類して診断を与える」以外に方法を持たない。それゆえ、ケアできる範囲を増やすためには、既存の診断目線で適用事例を増やすしかない。

 斎藤の定義したひきこもりの概念は実証研究や治療法の開発が後に続かなかったため、精神科医の視野から消えつつある。 (hotsumaさん「ひきこもりの半数は精神薬理学的治療を試みるべき病態である。」)

hotsuma 氏は、3年前にも「『ひきこもり』概念の余命は長くない」という主張をされており、これはむしろ hotsuma 氏の政治的執着に見える*6
実証研究や治療法が後に続かなかったことは、その取り組みやフレームは「必要ない」ということではないし、「精神科医の視野から消える」ことは、薬理学的に処理できないケースは医師の問題意識からすら「無視される」ということ。
私がひきこもりの親の会への参加を始めた2000年の段階では、厚生労働省のガイドラインもなく、親御さんが最も途方に暮れていたのは、「精神科医も行政も、事情を理解してくれない」ということだった。本人が診察室に現れず、親御さんへの対応に終始してしまうこと。実際に診察しても、「診断がつかない」ケースが多いこと。こうした事情に対して、「いや、診断がつくケースはもっと多いだろう」というのは、インフラで対応できる範囲を増やそうという自覚的(確信犯的)選択でない限り、既存の方法論への防衛的振る舞いにすぎない。▼斎藤環らの強調する「社会的ひきこもり」というカテゴリーが失われれば、既存の支配的目線で無視されがちな、つまり薬理学の発想ですら対応できない「残りの半数」については、インフラや専門職従事者の間でも不可視になってしまう。
精神科医の視野から消える」ことは、その視野からこぼれ落ちる苦痛の事情が今も続いていることを否定するものではない。みずからの制度的視線への分析を行なわない医師にとっては「存在しないも同然」に見えても、対応の難しい苦痛事情は続いている。そしてこれはもちろん、治療主義的発想で対応する事例の範囲を増やせばいいというだけの話ではない。施策やインフラの調整とは別枠の問題として、“患者”を対象化する目線の制度*7自身を分析的に検討し、そこを作業場にする必要がある。

 DSM-IVで定義された人格障害は10型あるが、根拠薄弱との誹りを受けながらも、それぞれが「一次性ひきこもり」とは比べものにならない質と量のエビデンスを有している。 (hotsumaさん「ひきこもりと人格障害の関係。」)

ここでは、「人格障害」というカテゴリー自体が、他者の反応パターンに対する政治的処理であることがまったく想定されていない*8。 「エビデンス(科学的根拠)」というのだが、他者を対象化して観察対象にし、そこで実証を志しているだけで、その自分の態度自体が臨床的に有害であり得る可能性について、まったく考慮されていない*9。 自分の存在や視線が他者との関係でどう機能するかについて徹底して鈍感であり、機能限定的な視線の役割に居直ることしかしていない*10
一連のエントリーのコメント欄には、今回取り上げている座談会の参加者も登場し、カテゴリーについてえんえんと説明が続いているが、こうしたカテゴリーやレッテルは、中心的には施策との関係においてしか意味を持たない*11。 本人の自意識において、「そうか、自分は○○障害なのか」とアイデンティティを得て安堵することはあるにせよ、そこでまたカテゴリー同一性とのズレによる再帰的自意識が始まる。▼エントリーのはてブには、ひきこもり経験者である id:yodaka さんによる、「もうわけがわからない」という声が記されている。ここには、アイデンティティと自意識の混乱がある。 hotsuma 氏のエントリーやコメント欄では、着手と作業場の話は、またしても忘却されている。



【参照】:宮台真司人格システムとは何か?

■同じく、精神医学(広義の心理学の一部に数えます)は最近“病気(神経症や精神病)ではないが変な人”を「人格障害」と呼び、矯正教育の対象とするようになりました。しかし社会学は、治すべきが人の心なのか社会の在り方なのかは、自明ではないと考えます。
社会学の立場では人格障害」は郊外化現象への合理的適応です。「人格障害」はむしろ正常性の証です。これを矯正教育の対象とすることで、合理的適応として「人格障害」を生み出すような社会そのものの矯正が、埒外に置かれる可能性を社会学者は危惧します。
■前述のように、社会システム理論から見ると、心理学が対象とする心理システムなるものは、人格システムに比しても極めて特殊な社会形象です。心理学とりわけ精神医学には、社会学者の政策的観点と協調体制を取りつつ臨床的観点を採っていただく必要があります。

ここには、「適応」が静態像ではなく、「適応のプロセス、その努力」として捉えられる片鱗がある。これは精神医学的な分類目線に比べればはるかにマシとはいえ、逸脱的なあり方が端的に肯定されるだけで、適応努力自体をプロセスとして主題化する議論になっていない。 「そう適応するしかないよね」という事後的な裁定で、苦しんでいる人の自意識を丸ごと救済して終わっている*12
つまり、人格障害とされる人の状態を認めるのか否かという観察者まで含みこんだ政治的揺らぎ(交渉の不確定さ)が、作業場として見えてこない。――それを観察している自分自身への分析をかけるより前に、いきなり「社会が」「システムが」という語りになり、逸脱と見える事例を承認したことで自らを承認し、語っている自らの葛藤プロセスを終えてしまう。これはそのまま、宮台氏がブルセラ少女に向けた目線ではなかったか。
ひきこもり臨床に必要なのは、即効性や大局論ではなく(参照)、取り組みのプロセスをそれ自体として主題化することだ。 主体自身の作業プロセスを無視した政治(施策)も、政治的葛藤を無視した臨床プロセスも、苦しむ本人の着手の困難を置き去りにしている。



*1:だからこそ、最初の窓口による精神医学的な診断が必須になる。私が講演会に呼んでいただくとき、ご家族等に必ずさせていただくのがこの「診断」の説明だ(参照)。 逆にいうと、ここの部分での誤診がつねに問題になる。 担当者や発表者によって、その地域で「ひきこもっている人」の統合失調症発達障害の率が、変わってしまう。

*2:一次的に強迫症状があってそれが理由でひきこもるケースと、ひきこもったあとに強迫症状が現れているケースでは、展開が違い、前者のほうが改善しやすいという(斎藤環)。

*3:器質因(脳髄そのものの物質的要因)とされる発達障害では、事情が異なる。とはいえ、「発達障害」というカテゴリー自体が、いわば政治的格闘の論争点となっている(参照)。

*4:精神薬理学的治療が必要と見える事例についても、「カテゴリー分類」という態度自体を対象化する問題設定が必要だろう。――むしろ私は、内因性精神病においてすらそうした “人文的” 理解は不可欠とする議論から、「社会的ひきこもり」のヒントを得ている。【参照:「制度を使った精神療法」】 ▼精神科医三脇康生は、臨床家の養成過程で「病名分析(カテゴリーの発生来歴への分析)」を課すとのことだが、悩んでいる本人を含む関係者各人において、こうした研究こそが必要だ。

*5:同じ批判趣旨は、「キャラ化」「キャラクター化」という方針に対しても言える。

*6:斎藤環的な、「人文的な」方針に対する苛立ちを感じる。▼私自身、転移フレームへの順応を蓋然的に推奨するだけに見える斎藤環の方針には批判的だ(参照)。

*7:この目線は、たとえば「俺はDSMでいえば××だ」などと自分を対象化しても、崩れない。それは制度的目線で自分を対象化しただけであり、その制度的目線そのものを対象化・論点化したのではないからだ。ここでは、正当化された「表象の制度」そのものを問題にしている。

*8:「政治的処理だからいけない」という単純な話ではない。処理のいきさつを分析的に主題化しているのだ。

*9:ひきこもりの苦痛元凶のひとつは、ディシプリン順応しか考えられない人たちの存在だ。――とはいえ厄介なことに、ひきこもる人たちの多くは、こうした無条件順応によって社会参加を試みる。

*10:カテゴリー分類は、現状分析の素材や出発点ではあっても、その静態的カテゴリーにとどまることは、「カテゴリー分類をしてみずからを安定させている自分自身」への分析拒否にあたる。――ただし、施策レベルの恩恵を制度的に設定し、それを受けるためには、分類やそれにもとづく精査が(手続きとして)必要になる。▼「ひきこもりの△%は○○性障害」というのは、印象操作として政治的にプラスにも機能し得る。あるいはそれは、支援者や研究者の就労機会にも関わるだろうか。

*11:macskaさんは、そのことをずっと前に指摘してしまっている。【参照:「医療カテゴリは、リソース配分を効率化するためだけにあれば良い」】 ▼逆に言うと、施策やインフラとの関係においては、「カテゴリー」がきわめて重要になる。

*12:宮台真司氏の議論が、ナルシシズムの備給装置として宗教のように機能する理由の一端だろう。