ベタに模倣するのではなく、分析労働としての自己構成

「やりたいということはやらせてみる」(p.154)など、斎藤の方針には、ひきこもる本人をどこか特権的に、「いたわりの対象」として扱う姿勢が見られる。これはまず、ご家族と本人の議論では、強い立場に立つ親が一方的にまくしたてることになり、「議論」というよりは「説教」にしかならないという、あまりによく見られる光景を危惧してのことだと思う*1。 しかし「いたわり」は、とりあえずの対応ではあり得ても、長期的に本人を empower(有力化)してゆく方針ではない。それは結局のところ、「順応すべき欲望フレーム(社会の枠組み)」への無批判な態度を自他の前提にしながら、つまり「考え方」は保守的なまま、力のさじ加減をしているだけだ


「既存フレームに順応させる」以外の方針を持ちにくいことは、彼がラカンのフレーズ「人間の欲望は他者の欲望である(le désir de l'homme est le désir de l'Autre)」から、〈模倣〉のモチーフばかりを取り出すことにも伺える*2ラカン理論に限定しても、これは「大文字の他者の欲望」という話で、そこで問題になっているのは無意識の欲望であり、たんに具体的な誰かが欲しがっているものを欲しくなるというだけの話ではないと思う。▼少なくとも斎藤のひきこもり論では、すでに生きられている欲望フレームは固定的に描かれ、あとはそれへの嗜癖が語られる(p.63)。欲望フレームの骨格自体に対しては、まるで主体は無力に見える。


しかし欲望は、対話的に変化し、強化される。 「反論したい」というのは制御不能なほど強烈な欲望だし(参照)、誰かに説得されて感動するのも、見事な動機づけになる。ラカニアンである斎藤が本来目指すべきは、抑圧された「無意識の欲望」の活性化だと思うのだが、理論家としての斎藤は「欲望の道」を論じても、臨床家としての斎藤は、「そーっと好きなようにさせる」だけであり、無意識の欲望は技法レベルで放置される


ひきこもりの場合、ベタなレベルでの敵対*3や受容が、制度として硬直している(斎藤はそれを「ひきこもりシステム」と呼んでいる)。 お互いの関係や意識のフレームが、ひどく抑圧的な制度を成している。 斎藤は、ただその膠着を解きほぐそうとするが*4、この膠着自体が、強烈な欲望のありかを表明しているともいえる*5。 必要なのは、この抑圧的なフレーム自体を対象化し、組みなおして風通しを作る作業の共有であり、それを物質や制度のレベルで具体的に遂行することだ*6


ひきこもりにおいては、自分で取り組むプロセスの困難こそが窒息を生んでいる。その着手とプロセスのアイデアこそが必要なのに、斎藤のしているのは、「うまくいったらどんな感じになるか」と、「うまくいっていないのはどういうメカニズムなのか」の理論的説明でしかない。本書では、ラカンコフート、クライン、ビオンなど、さまざまな理論装置が持ち出され、「説明」されるが、そうやって説明された状態像は、事後的に見出された《表象》であり、その状態にどう取り組むのか、そのプロセスと着手が主題化されない。具体的に取り組むコツの話はないのだ。作業場の話が始まっていない。


クライアントの試行錯誤についても、斎藤はそれを事後的に承認することしかできない。何かをやってみることでようやく自分を構成する、その「成果=表象」を事後的に分析する。そこで主体は、常にすでに事後的に発見される「欠如」でしかない。――これは、客席からの「表象分析」だ。制作プロセス自体を分析するのではなく、ある作品の《帰結=表象》だけを分析し、そこに至る道については、「欲望の道を進んでいるかどうか」だけが問題になる。 ▼これは臨床家としては、「寄り添う」だけになる。 「寄り添うだけの人=モノ」として、彼は臨床場面に居るのではないか。(斎藤は精神科医として、「親切な宇宙人」「味方のロボット」でいたい、という。宇宙人もロボットも、努力のプロセスには関知しない。*7


「支援者」や「学者」との関係フレームを分析し組み替える、その作業自体が、社会参加の第一歩、あるいはその後も継続される参加の《手続き》かもしれない*8。 ひきこもったり働いたりする状態像が《表象》として事後的に対象化されるだけではなく、生活や関係が作られるプロセス自身の制度を問題にするべきだ。 着手のスタイルが、過剰に抑圧的であったり、過剰に自傷的ではないかどうか。そこにこそ臨床的な批評と実践が介入するべきなのに。


主体のプロセスの危機が徹底して臨床的=批評的に扱われた上で、その相手に寄り添うことのロジックが分析され、組み直される。――これこそが、斎藤の言う「役割理論を考え直すこと」ではないか。 役割理論とは、静態的な観察対象としての位置づけを問うだけでなく、お互いの制作的な取り組みの中で、お互いの関係と努力が継続的に問い直されるべきだし、そうでなければ、まさに関係と意識との硬直ゆえに起こっているひきこもりの困難を、それ自体として扱ったことにならない。 斎藤の分析は、すでに成立した欲望フレームへの事後的な分析(表象分析)としてはきわめて鋭いが、これから積極的に取り組もうとする主体の手続きについては、驚くほど貧しい情報しか含んでいない。


制作的な関係分析の努力は、お互いの関係を公正化しようとする斎藤自身の方針(p.149)とも合致する*9。 単に「そーっと」いたわる方針は、欲望の賦活という観点からも、家族や支援者・社会との関係を公正化するという観点からも、疑問がある。


取り組もうとする努力が、どんなふうに制度的に*10抑圧されているのか。 関係の作り方や努力のプロセス自身を分析する労働は、再帰性の方向で空しく費やされていた倫理的衝動に、別のギアをかませることに思える。――そのプロセスにこそ、臨床家は分析的に介入できないだろうか。理論を折衷的に現場にもたらすのではなく、現場(場所とかかわり)を最大限理論的に分析し、組みなおすこと。その分析と組み直しの作業にこそ、試行錯誤し続けること。▼おそらく《分析》という言葉にこめるニュアンスが、ここでの私と斎藤環とで違っている。斎藤では、対象化された状態像(表象)の分析が目指されている。私では、すでに成り立っている場所でのお互いのかかわりや努力が、関係者全員に対して問われている。私はむしろ、こうした分析労働のプロセスを、治療過程そのものとして問題にしている。


【その5に続く予定】


*1:以前にインタビューさせていただいた際にも、斎藤氏はそういう趣旨のことをおっしゃっていた。▼ひきこもっている側は、家族内において決定的に交渉弱者であり、これが不当な形で(家庭内暴力等によって)逆転して「帝王のように」振る舞うことがある。――こうしたことのすべてが、あまりにベタな関係性に巻き込まれたままであり、「作業場としての議論のテーブル」を失っている。

*2:ひきこもりはなぜ「治る」のか? 精神分析的アプローチ (シリーズcura) [ 斎藤環(精神科医) ]』p.63〜、『rakuten:book:11961519:title』p.21

*3:かつてのクラスメートや教師への怨念は、ガチガチに硬直して手が付けられなくなっている。これは、無力感の一つの表れだ。

*4:爆笑問題のニッポンの教養』FILE015:「ひきこもりでセカイが開く時」では、「愛は負けても親切は勝つ」という、斎藤の講演ではおなじみのフレーズが紹介されていた。

*5:考えてみれば、「再帰性」や「実体化」も、それ自体として強烈な欲望のフレームだ。

*6:ここで転移操作は、人に対してだけでなく、物や制度、努力そのものに対しても問題となり得る。――私はこうした方針において、フェリックス・ガタリジャン・ウリらの「制度論的精神療法 psychothérapie institutionnelle」を参照している。

*7:とはいえ、ここで私が言っているのは、単にベタに「味方になればいい」ということではない。それは分析なしにベタに関係を共有することでしかなく、それ自体が窒息的だ。

*8:私自身はそういう作業になっている。

*9:ひきこもりの家族内の「公正化」については、彼は2001年から話題化している(『ひきこもり文化論』p.164、元原稿は『広告』2001年12月)。

*10:ここでは、本人の思わず知らず選択している努力のスタイルまで、「制度」という言葉で表現している。