「精神そのものが政治的な事態だ」という理解

社会的ひきこもりは、それ自体としては「病気」の圏内にはない。あくまで神経症圏であり、医師の診断によって精神病圏と判明した閉じこもりは、「社会的ひきこもり」とは別の処遇(障害者年金の支給・投薬など)が必要になる*1
しかし、たとえば私は「自分の現実がうまく組織できない」という感覚にずっと悩まされてきたが*2、これは字面だけを見ていると、統合失調症患者の訴えと変わらないらしい。そして現実に、「社会的ひきこもり」を理由に精神科を受診した事例の多くが、統合失調症と誤診されてトラブルになっている*3
ひきこもる人の精神が「実体化」に陥ったり、再帰性固執したりする状態は*4、むしろ自分がうまく統合できないことへの防衛的反応と理解したほうが良いのではないか。
それは、「精神そのものが政治的に組織される」という、深く人文的・政治的な理解を必須のものとする。 「病気」と処理できない「ひきこもり」においてこそ、精神の政治的性質が露骨に表現されているのではないか。
ドゥルーズ=ガタリの「スキゾ分析 schizoanalyse」や制度論がひきこもりと内的関係を持つように見えたり、哲学者や社会学者の現代社会分析が “臨床的に” 有益に思えたりするのは、偶然ではないと思う。――というか、政治的な要因をきちんと話せない支援論は、臨床的に無益(どころか逆効果)なのではないか。 少なくとも、何百億円もかけるには《効率》が悪すぎる。
「ひきこもり支援」自体が、政治的に組織されることを自覚的に語るべきだと思う。(政治的である以上、立場は複数に分かれる)



*1:「病者」「障害者」という役割が確定することで、法的な位置づけが変わり、利用できる福祉系のインフラが増える。

*2:参照1】、【参照2

*3:逆もあるだろう。▼とある医学系の学会発表では、「ひきこもりの多くは統合失調症だ」とする精神科医が強硬に会場発言し、紛糾したと聞いている。

*4:いずれも斎藤環の指摘