場所の論点化と、「ひきこもり」

支援の場所は、ひとつの論点として成り立つ。そこで何が為されるべきなのか、ルーチンとして決まっているわけではない。ただ《場所》がなければ、《論点》としても霧消しかねない。支援という場所は、つねに論じ直されるべき論点として成り立つ。


学問は、それぞれのジャンルごとにディシプリンと事業を持つ。それは議論として制度化されている。さて、その学問ジャンルそのものは、自分で自分を検証することはないのだろうか。議論の一貫性として内在的に検証されるだけでなく、社会の中での意義や、苦痛臨床との関係において。一つの学問制度は、ディシプリンの確立で社会への参加資格を得ているが、その参加資格は、具体的な現場との関係において絶対的ではない*1
研究者は、「研究する」というアリバイで自動的に参加資格を得るのではない。「観察者」としてのメタな視線は、免罪符ではない。個人として具体的な場所に合流する以上、その場で機能する関係のロジックを問い直す作業に合流しなければ、それは相手を利用しているか、相手に利用されることでしかない。同席した場所で共有されるべきなのは、お互いの肩書きや役割ではなく、場所のロジックを再編する分析作業そのものであり、その終わりなき継続だ*2


ひきこもりに対する学問的なアプローチがあり得るとしても*3、その学問的なアプローチそのものが論点化されねばならない。 ○○学的にひきこもりを論じること自体が、ひきこもりという現象との関係で論点化されること。その臨床的意義や、○○学そのものに参加資格はあるのか、あるとすればどのようにしてなのか、など。 決まりきったディシプリンでひきこもりを対象化したからといって、自動的に参加資格ができるわけではない*4


同様にして「ひきこもりの支援」は、支援を名乗れば支援なのではないし、その社会的な機能は制度的に押し付けられるものではない。むしろ、《社会参加》そのものが論題化される「ひきこもり」においては、「各人がどのような資格とロジックにおいて社会参加し、人と関わっているのか」それそのものが論点化されるし、ひきこもりを論じたり支援したりする業界自身が、そのような試行錯誤のフィールドとして成立するほかない。



*1:むしろ、その学問制度自体が一つの特異な《現場》として構成されている。 ▼同様の「場所としての論点化」は、ほかの「努力の装置」についても行ない得る。小説や絵画、あるいは「家族」など。 必要なのは、小説や家族という制度を単に擁護することではなく、それを分析的に論点化し、当事者的に検討することだ。 斎藤環の『家族の痕跡』が興味深いのは、それが独特の「当事者語り」になっていることと無縁ではないと思う。当事者語りは、「具体的な場所の分析」としてのみ興味深い。

*2:「医者と患者」「教師と生徒」も同じこと。それを協働的に問い直すのが「制度論的精神療法(psychothérapie institutionnelle)」であり、「制度論的教育学(pédagogie institutionnelle)」なのだと思う。 この私のエントリーは、制度論の再考察に重なっている。 制度論とは、まさに「場所の論点化」ではないのだろうか

*3:「心理学的」「社会学的」など

*4:そのような硬直においては、ひきこもりを内在的かつ関与的に論じることにはなっていない。 みずからの参加手続きを問うていないからだ。