著名な語り手と生活者

  • 著名な語り手の多くは、読み手が自分の状況や自分自身のことを分析せずともナルシシズムに浸れるような言説スタイルになっている。熱心な読み手は、「自分は分析を理解できた」と、自分の現場に介入的な分析をせずとも悦に入れる。しかし、「どんな場所にでも通用してしまう分析」は、知的ディレッタンティズムでしかない。読者の側には、自分の足元に対する独力の分析が見られにくい。(著名人の分析に酔い、自分の置かれた状況に事後的に悦に入ってるだけ)


  • 社会全体に対するメタな考察において、本人(と帰依対象である知識人)だけは大文字のナルシシズムを生きており、具体的な人間関係や職場関係が内在的に(当事者的に)分析されない。 「自分にはわかっている」。 現場的には間違ったことであっても、大文字の分析や「大文字の正義」に照らして正しく見えることを、いつまでたっても主張し、そこでナルシシズムを維持している。読者=語り手のナルシシズムのために、間違った主張が頑迷に維持される。


  • 大文字の正義を生きることで、大文字のナルシシズムが温存される。大文字の正義を語っても生きていけない状況については考察されない。▼具体的な人間関係を理解するのに、ナルシシズムの語彙と理解構図しか持っておらず、本人の自分の状況に対する換骨奪胎的な分析の趣旨を理解できない。具体的な関係に対する分析努力のすべてを、ナルシシズムとしか理解しない。これでは、「大文字のナルシシズムを共有する」という形でしかコミュニケーションが取れない。


  • 宮台真司は、「エリートには蓄積が要る」というのだが、巨大な制度設計や学術的業績のためには蓄積が必要でも、多くの生活人にはそれは必要ない。そもそも、膨大な理論や学者の名前を知らなければ、真摯な生活者になれないのだろうか?  生活者に必要なのは、自分がすでに生きている環境や固定観念を分析的に解体し積極的に生きるための知識やスタイルであって、政治的アリバイを振りかざして悦に入るためのディレッタンティズムではない。