大文字の分析とナルシシズム

関係者や語り手の固有名詞が登場し、「現実/作品/私」の関係が倫理的に問われる、そこでの実験が為されたように見える「キャラクターズ」(東浩紀桜坂洋)は、いわゆる《当事者》系の議論とモチーフを共有する*1。 刺激を受けたこの作品を出発点に、以下では疑問点を記してみる。

  • 東浩紀氏や彼を模倣する語り手は、環境と実存の関係をメタに語り、自分のことを忘れた語りを実現することで、かえって「大文字の分析」を語るメタなナルシシズムを手に入れる。メタ分析を語る本人は、自分の語りの構造についての分析を必要としない。プレイヤーは、ただ「点数を上げる」ことを目指す。
  • 大文字の環境分析においては、語っている本人が組み込まれている《現場》のロジック(制度)は、「キャラクター」や「プレイヤー」のナルシシズムとしてそのままに温存される。そのような語りに落ち着いてしまっていいのかどうかは、リベラリズムの問題ではなくて、苦痛緩和のための臨床(現場)の問題であり、臨床的効果との関係に置かれた倫理の問題。 大文字のナルシシズムをしか目指せない語りの制度は、苦痛をいや増す。 生活圏で、小文字の分析を生きる必要がある。


  • 「キャラクター」にこだわる文化は、硬直したナルシシズムの制度ではないだろうか。生身の個人としてすでに生きられている具体的な文脈をもった苦痛への取り組みや分析と、「キャラクター」の(必然性を持たない)自由闊達さ。作品内で扱われる論点に説得力がないなら、キャラクターの説得力(キャラ立ち)は、ナルシシズムとしか思えない。


  • 現代風の虚構作品には、自分のことを特別だと思い込む素朴なナルシシズムばかりを感じる。「多様化している」とみえて、実はナルシシズムのパターンはみんな一緒ではないのか。お互いに自分にしか興味を持っていないだけで、多様でもなんでもない。


  • 東浩紀動物化論は、社会成員のナルシシズムをそのまま温存するように見える。環境と実存の関係を(大文字の形で)語るが、「語り手」の、メタ考察に没頭する個人としてのナルシシズムは手付かずに残される。▼動物化した世界について語る作業はとても「人間的」だから、その仕事が尊重されるためには、“人間的な”読者が必要――いや、メタ分析を語ることで悦に入る姿自身が「動物的な」あり方の一例として端的に肯定される。メタ分析がどのような語りの制度であるかが検討されない。


  • 必要なのは、物語のナルシシズムではなくて分析だ。「大きな物語ではなくて小さな物語しかない」というのは、ナルシシズムの器の変遷を語っている。そういうナルシシズムとは別に、自分がすでに生きている具体的文脈や意識の《制度》について、小さな分析が必要(大文字の分析ではなく)。


  • さまざまな小説技巧や二次創作は、ナルシシズムのための環境整備にしか見えないことがある(作り手と読者の、ナルシシズム共同体)。 そういう工夫の全体に興味を持てなければ、コミュニケーションに参加できない。


  • 「キャラクター」ではなく、「論点」として、想像的象徴的現実的、と分類できないだろうか(たとえば想像的論点は、自分の鏡像維持にばかり執着しているストーカー的な議論)。 論者の固有名詞は、キャラクターではなく「論点の名札」として理解できる(「赤木なら希望は戦争」など)。


  • 「人間的であろうとする」ことはナルシシズムだが、単に動物的であることも、陳腐なナルシシズムを温存することでしかない。 いきなり大文字で「環境管理」を語ってしまうことは、固有名に結びついた、具体的で偶然的な人間関係や制度の分析をできなくする。自分の生きている《現場》について語る必要があるのに、大文字の歴史や「環境管理」について語っても、生活者としてはどうにもならない(そのような語りで職を得られる人はともかく)。 各人の生活現場における主体の危機が問題にできない。 多様性の単なる称揚は、主体の危機を問題にできない。


  • ゲームにある程度ハマると、そのゲームのルールに則って少しでも先まで行きたくなる(ポイントを高めたい、アイテムをとりたい、ステージを先に進めたい)。 学問や、他の専門性でも同じだろう。 しかしその熱中は、ゲームにハマっていない人には無意味なナルシシズムに見える。 また、「ハマれない」という苦痛について臨床的な話ができない。 ▼ゲーム遂行は分析の拒絶。 しかし、再帰性からの開放*2




*1:最近イベントに参加した知人によると、東氏は「さまざまな固有名詞が登場し、そのエピソードが読者に取り沙汰される《批評》というジャンルは、そもそもキャラクター小説的なもの」とも語っているらしい(大意)。

*2:「自転車に乗れる人は乗り方を意識しないし、意識すると乗れない」という比喩。