「当事者=イノセンス」の政治性

  • 現代芸術を見た多くの人が、「こんなものは子どもにでも描ける」とため息をつく。超絶技巧が専門性で、子どもの絵が単なる幼稚な弛緩でしかないとしたら、現代芸術を形作るたくさんの「流派」は、あれはいったい何をしているのか。 これについて、専門性と批評的フットワークの比喩として――いや、比喩以上の何かとして、語れないだろうか。 ▼「人間的な」絵に対する苛立ち。いっぽう、抽象芸術はくだらないと思いつつ、その「非人間的な」性質に心魅かれる。


  • 大江光を賞賛する人たちに対する、浅田彰坂本龍一の批判:「音楽としてはつまらない」。知的障害者のみが与える「イノセンス(純粋無垢)」の印象が、深い癒しの効果を期待される。大江光知的障害者であることで、誰も彼を批判できない。ここにはまさに、《当事者》のもんだいがある。知的に熟達した「専門家」の作品には癒し効果がなく、また「装われたイノセンス」にもしらけてしまうが、「本物の」知的障害者の作品にホッとすること。▼「作品内容」への評価と、「それを作ったのはどういう属性の人だったのか」との関係は。