動機づけの成功と制度

  • 何かに熱心に取り組むとき、私たちは制度の中にいる。自転車に乗るときに筋肉の動きを意識しないように(意識しているときは乗れていない)、動機づけと能力の高さは、自意識の解除と同時に起こる(斎藤環が引きこもりについて指摘する「再帰性」の問題)。 ゲームに熱中し、ゲームに習熟することは、制度内の存在になること。 ゲームに対してメタな意識を保つことは、そのメタな分析に熱中するのでない限り(それもまた別の制度参加だろうか?)、単に「しらける」ことを意味する。 たとえば物理学に熱中できるのは、数学のできる人だけだ。


  • 「オタク」やその文化は、ナルシシズムの制度であるように見え、そのことが私に違和感や嫌悪を持たせているように思う。 非モテや引きこもりが嫌悪の対象になりやすいのも、閉鎖的なナルシシズムの鬱屈が関係する*1。 「そのような生き方すら認められる必要がある」*2のは前提として確認したうえで、欲動の流れが閉鎖的に見える個人(要するに独りよがり)は、対話的交流の相手にはならない。 ▼性愛は、単に相手を消費したり依存したりすることではなく、お互いに換骨奪胎的に交流することでもあるはず。いや、そうでなければ、お互いの欲動の圏内で窒息してしまう。


  • 斎藤環はひきこもっている人に「オタクになれ」というが、それは一つのナルシシズムの制度に入門せよ、あるいは「入信せよ」と言うのに等しいのではないか。そのことは、斎藤環がラカニアンであり、ラカン派が一つの制度であることと内的に関係するように思われる。一つのナルシシズムの制度に入信することが必要なのではなく(それはせいぜい選択肢の一つ)、ナルシシズムの制度へのメタ的な、あるいは換骨奪胎的な疑いこそが高度に分節化されてゆく、そこにおける熱意があってもいいはず*3。 私にとって、倫理はそこにある――ということは、臨床的なキモとなる契機もそこにある。ナルシシズムの閉域に入信することは、単なる倫理的衰退にも思える。(短期的には日々「閉域への参入」を行なっているし*4、そもそも欲望の道筋を維持するとは、何か自分の言葉や切実さが「文脈に参入する」ことだから、ラカン派や斎藤環の議論は必要だ。そのうえで、「それだけではどうにもならない」という話をしている。)


  • 制度は情熱の環境を用意する。 しかし、「どの制度に入門するか」で迷った挙句、既存の制度(要するにこの世界)には幻滅しかないかもしれない。 ▼情熱には、制度順応とともに、制度への(必然的な)換骨奪胎の情熱があり得る。 ゲーム的ナルシシズム*5の制度内における情熱《だけ》ではなく(分業体制の中ではそれも必要だ)、そこからの逸脱が含む必然性の契機が重視されていい。 「順応フォビア」としての不登校や引きこもりに倫理的言い分があり得るとしたら、そこだと思う。単に自分を特権化するナルシシズムではどうしようもない。




*1:映画『40歳の童貞男』では、主人公は同僚たちから「連続殺人鬼ではないか」と疑われていた。

*2:リベラリズムの要諦は、「多様な生き方が認められるための制度的整備」にあるのだと思う。

*3:それが社会参加であるためには、孤立してしまっては無理。同様の態度をとる人が他にも要る。▼私は、私の試みに社会的意義を認めてくださる人たちの支えによってここまでやってこれた。

*4:ゲームをするなど

*5:ゲーム的リアリズム』(東浩紀)というタイトルを、私は常に「ゲーム的ナルシシズム」と読んでしまう。環境管理的な制度整備は、ゲーム的ナルシシズムにひたれる人間をこそ勝者にする(マネーゲームは言うに及ばず)。 東浩紀的な環境管理の話だけでは、制度内に居場所を見出す「キャラクター的なナルシシズム」を、そのまま温存するのではないか。