お金の環境と人間の環境

  • 多くの制度的強制力やナルシシズムには、お金が絡んでいる。逆に言うと、お金の流れを生み出せなかった取り組みは、社会的に維持できない。制度への換骨奪胎的な姿勢は、そのまま「お金の流れをせき止めること」にも見える。▼お金の流れは、せき止めればいいというものではない*1。 たとえば、「これをすることで職場環境がよくなり、生産性が良くなる」とか、「それは生きる環境を良くすることでもある」といった説得が必要。


  • 産業カウンセラーは、「壊れた兵士を戦場に復帰させるだけ」になりかねない*2。 人を潰す制度を温存して人だけを「治そう」とすることの愚。 また、「資本家」と「労働者」を差別的に分断して、労働者カテゴリーの人間だけを救おうとすることも、硬直した理念ナルシシズムでしかない*3。 社会参加している私たちは、具体的にどのような《制度》を生きているのか、それを関係者が自覚的に問題化することが必要。 ▼私はここで、特定の文脈をもった「制度論」を参照しているが、職場環境についての試行錯誤であれば、どこでも一部はそのような議論が生きられていると思う(いや、それは楽観的すぎるのか)。




*1:左翼の多くは「金儲け批判」を自己目的化させるため、自己満足的で無責任な批判になる。いわば「理念のオナニー」。

*2:自分の果たすべき社会的機能について真剣に思いつめた産業カウンセラーが、そのようにつぶやくのを聞いたことがある。

*3:短期的戦術としてそうした差別的態度が必要だとしても、あらゆる局面で常に同じ硬直した理念構図を持ち出すのではどうしようもない。これは硬直した「当事者」主義にもいえる。