「目覚めと眠りのあいだの敷居」

9月15日、「フロイト思想研究会」 第一回大会(プログラム)に、聴衆として参加。
精神分析が一つの「制度」であり、そのことに窒息しつつ、しかしその専門性はやはり必要だ――などと考えていた。


会長講演のあとの冒頭の講演で、「フロイトという父を殺す」ことを匂わせつつ始められた坂部恵氏の議論に興奮した。できれば後日詳しく考えたいが、ここでは配られた資料から引用のみ(強調は引用者)。

 目覚めと眠りのあいだの敷居が、満ちては引く潮である大量のイメージに侵食されたかのように、各人のなかで踏み減らされてしまっているときにのみ、人生は生きるに値すると感じられた。音とイメージが、イメージと音が自動機械のような精密さでうまくかみあい、その結果《意味》などというつまらぬものが入りこむ隙間が残されていないときにのみ、言語は言語そのものであるように思われた。 (『ベンヤミン・コレクション〈1〉近代の意味 (ちくま学芸文庫)』p.495)

同じ箇所を、手持ちの別の翻訳から。

 人生はめざめと眠りのあいだの敷居が、たとえば大量にひしめき流れるイメージの進行などによって、各人のうちでふみこえられたときにのみ生きるに値すると思われ、言葉は音とイメージ、イメージと音が、自動的な正確さで幸運にも相互浸透し、重たい「意味」のための裂けめなどもう残っていないときにのみ、言語そのものとなる。 (『rakuten:book:10178231:title』p.13)

ラカンの「parole pleine(満ちた発話)」、形相付与としての「informatio」などが論じられた。

以下は私の感想

自意識過剰の「自分語り」とは別の、むしろ無私的で無記名的な当事者語りのヒントは、このあたりにある。 ▼東浩紀的な(郵便的な)情報論では、「言葉が形成される」というプロセスの話は出てこないが*1、そもそも現代では主体形成の難しさにこそ苦痛が生きられている。そこでの葛藤を「人間的」と切り捨てたところで、苦痛がなくなるわけではない。いわば「苦痛の制度分析」が要る。 それは、構造的排除等の「社会的」要因を無視することではない。分析という非人間的な営みにおいて、個人と環境が相互往復的に、かつ換骨奪胎的に考察される必要がある。



【追記】

自意識過剰の問題は、「見るべき現実を見ていない」にある。自意識過剰とは、現世的現実への囚われを意味し、必要なのは「夢かうつつか」の体験なのだが、それは単なる現実逃避ではなく、むしろ別種の現実への没頭を意味する。▼ラカン派はそれを「ナルシシズムを実現する制度」として語り(そのメタ的分析自体がナルシシズムの温床になる)、いっぽう制度論は、その「ナルシシズムを実現する制度」そのものをも分析と換骨奪胎の対象にし、かつ、それを通じてみずからが改編される。▼斎藤環の「ひきこもりはオタクになればいい」という提言は、オタクという「ナルシシズムの制度」への順応を勧めており、かつオタクという態勢を実現したあとには、みずからの態勢を換骨奪胎する倫理的要請が廃棄される。(あるいは、「欲望の道を行く」という倫理において、オタクという制度的な主体のあり方が、そのままで倫理的な態勢とされる。)








*1:断片としての情報とその環境の分析のみ。主体は、そういう環境を分析する主体としてのみ「人間的に」構成される。そのような分析を生きる主体は、「神のような」地位に君臨してしまわないか?