「無意味な「延命」は是か非か?」

たいへん説得的な浅田彰氏の発言。

 生命が絶対だってことを別の方向へもっていくと、医療技術が進めばいくらでもムダな延命治療をしちゃうことにもなる。いや、ムダって言えるかどうかは難しいよ。だけど、どう見ても自宅の畳の上で死んだほうが幸せなのに、病院のベッドでスパゲッティ症候群と言われるぐらい管を突っ込まれて何カ月か延命させられちゃう、ほんとにそれでいいのか、と。ついでに言うと、そのあいだに病院がものすごく医療費を稼ぐことになってるわけだしね。もちろん、こういう問題はまずもって自分の問題としてしか考えられないんで、僕だったら、治療不可能で苦痛を伴う最終段階にきちゃったら、無駄な延命はやめて、さっさと殺してもらいたいと思うわけよ。
 結局、「人間として生きる」ってことには、「人間らしく死ぬ」ことも含まれるわけだからさ。単に生命が絶対だって言ってると「人間らしく死ぬ」ことさえできなくなる。だから僕は、人間らしく、自由に伴うリスクは引き受けながら、しかしあくまで自由に生きる、そして最後は無意味な延命を拒否して自由に死ぬのがいいと思うな。そういう意味じゃ、長野みたいに在宅医療重視でいくってことも重要だと思うよ。
 二〇世紀前半、ナチス優生学的発想からユダヤ人のみならず障害者も虐殺しちゃったこともあって、二〇世紀後半は、とにかく生命は絶対だ、絶対に延長すべきだってことになってたけど、二一世紀は「よく死ぬ」ことも含めて「よく生きる」ことを考えていくべきなんじゃないか。僕は個人的には安楽死(「尊厳死」っていう言葉はきれいごとに過ぎると思うから)を合法化すべきだと思うし、自殺幇助の合法化すら考えていいと思う*1。っていうか、たとえば末期がんになった場合、金持ちなら安楽死の合法化されてるオランダやスイスに行って死ねるってのは、どうみても変でしょ。
 むろん、これはものすごく微妙な問題なんで、患者の意志の確認に関しては慎重の上にも慎重を期すべきだし、ちょっとでも長く生きたいと思う人の意志がそれで少しでも妨げられることがあっちゃいけないよ。だけど、もう十分だ、自由な意志で死にたいって人がいたら、それを妨げることもないからね。



本人自身が本気で死にたがっている*2ケースにまで当てはめられる「生の無条件肯定」は、人の命を政治的スローガンに利用している。
誰かの命が、「生命を肯定しているんだ」というナルシストの独善に利用される。苦しんでいる本人の意向を無視して。
苦痛を引き受けるのは本人であり、その苦痛を維持するための体制維持に全体主義が導入される。「生命尊重」を叫ぶ権力者は、その全体を自分のイデオロギーで肯定するだけで、責任を取らない。目の前で誰が苦しんでいても、生命を尊重する自分だけは100%正しいと思い込んでいる。その独善的で身勝手な権力のせいで、関係者の苦しみだけが続いていく。「生命を尊重しているんだ」というアリバイがあるために、誰にも批判されない暴力。


自分の生き延びる意味を、健康や人間関係などの等身大のレベルに限る権利だってあるはずだ。「無条件の肯定」などというのは、狂信的な宗教を人に押し付けているにすぎない。



*1:参照】(転載元が2ちゃんねるとのことなので、浅田彰氏の発言かどうか確証が持てない)

*2:「それは本当に本人の意思か?」「制度的に改善できる点はないか?」など、本人の苦境を契機に考え得る倫理的テーマはあり得ると思う。