「守られる側」と、「守る側」

貴戸が「コドモであり続ける」と主張するとき、そこで守られようとしているのは、不登校状態にあった小学校時代の彼女自身だ(本書の冒頭は、不登校時代の彼女の経験が『長くつしたのピッピ (こども世界名作童話)』に重ねて追想される)。
貴戸は、今でも自分を不登校《経験者》とは名乗らず、不登校《当事者》と名乗る。過去の現役不登校児童だった時代にもらった処遇のフレームを、成人以後の自分にも与えてほしい、と主張している。そのことが、「コドモであり続けること」と表現される。


郷愁と自己愛の対象でありつつ、倫理性の要(かなめ)でもある*1「子供時代の自分」が、静的な存在として特権化=全肯定され、批判してはいけない対象になる。その絶対的存在を守ろうとする、大人としての能力と権限を持った貴戸は、「コドモ=弱者=当事者」を守ろうとする言葉(運動)として、絶対的なアリバイを手にする。繰り返すがこの構図は、「不登校当事者を擁護する」というアリバイで「学者・貴戸理恵」をバッシングした奥地圭子と、同じものだ(参照)。


奥地圭子においては、「守られるべきコドモ」は、自分の外にあった(奥地自身は不登校経験者ではない*2)。だから奥地は、「コドモを擁護する言説(運動)」のみを担う。ところが貴戸にあっては、「保護されるべきコドモ」と、そのコドモを肯定する「保護者」の役割が、両方自分のなかにある。コドモと保護者の役割は、そのつど都合よく演じ分けているようにも見える*3





*1:「私の一番大切な核の部分」(p.188)

*2:奥地の息子は不登校経験者。

*3:このことは、東京シューレ側によっても指摘されていた。この貴戸の問題は、私自身も他人事ではない。