「焦燥感」と「せき立て」の違い

上記「三人の囚人の話」について、斎藤環ひきこもり文化論』(p.93)より。

 このすぐれた寓話は、ひきこもりを考える際に、きわめて重要ないくつかの示唆をもたらしてくれます。 病理的なひきこもり事例において、欲望が存在するにもかかわらず行為が阻害されるのはなぜか。 それはまず「せき立て」の欠如にもとづくでしょう。 この言い方も、あるいは奇妙に聞こえるかもしれません。 ひきこもりの青年たちは、自分たちが世間から後れをとってしまったことに対して、強い不安と焦燥感を抱えているではないか。 それは「せき立て」とどう違うのか、という疑問もあり得るでしょう。 しかし私の考えでは、焦燥感とせき立てはまったく異なります。 多くの場合、焦燥感は有効な行動につながりにくい。 むしろ焦燥感ゆえに、無為に過ごしてしまうことも珍しいことではありません。 この点が行動を促す力を秘めた「せき立て」ともっとも異なっている点です。


    • 「断言=行為」の主体として屹立することは、自分を有限化することであり、まさに「去勢されること」といえる(去勢は、賭けとして遂行される)。 「断言=行為」を促すせき立てがなければ、去勢されることができない*1。 これだけを見ていると、単なる説教主義と見分けがつきにくい。


 人間は去勢されることによって、はじめて他者と関わる必要性を理解するようになります。逆に、人間は去勢されなければ、社会システムに参加することすらできません。これは社会的、文化的要因によって左右されない、すべての人間社会に普遍的な掟ということになります。成熟は断念と喪失の積み重ね、すなわち去勢によって可能となりますが、ここで忘れてならないのは、去勢がまさに他者から強制されなければならないということです。言い換えるなら、みずから望んで去勢されることは不可能なのです。 (斎藤環ひきこもり文化論』 p.121)


    • ゲームの規則がせき立てを生む」といっても、偏差値競争やキャリア競争などでは、焦燥感にしかならない。それは想像的な空回りであり、かえって去勢否認を強める。本当に象徴的と言い得るせき立ては、本人がすでに生きているゲームに事後的に気づくことで生じる*2。 無理やりゲームを押し付けても、恐怖を煽ることにしかならない。▼「働かなければ、生きていけないよ」と言ったところで、生き延びることは、耐え難い時間を引き延ばすことでしかあり得ない。そのようなものへの動機づけは、意識的・理性的に調達しようとすると、またしても再帰性の地獄にはまる。ますます何もできなくなる。
    • 生きている時間を続けようとする動機づけは、非理性的な、狂信的なものでしかあり得ない。そういう無自覚的な固執*3については、苦しんでいる本人自身にもよくわかっていない(うまく分節できていない)。 うまく分節できない固執は、ひたすら狂暴な苛立ちとして、幼児的な暴発として体験される。
    • すでに生きられている固執のゲーム*4とは、たとえば本人が繰り返し「許せない」と思い出す過去の出来事など。 「この現実が無視されることだけはどうしても許せない」。 無視されることを許せない現実に気づいてしまうこと、それがゲームへの参加に当たる。 何もないところで承認だけを求めるのは、虚栄心に過ぎない。




*1:「断言=行為」を自由と考えれば、「自由には、せき立てが必要だ」ということになる。

*2:というか、せき立てられていることに気づいて、参加していることを認めざるを得なくなる。

*3:無意識的な欲望

*4:ゲーム参加とは、固執の関係を生きること。将棋に興味のない人にとっては、将棋の勝ち負けはどうでもいい。▼本人にそのつもりがなくとも、「すでに参加してしまっているゲーム」というものがある。