上記「三人の囚人の話」について、斎藤環 『ひきこもり文化論』(p.93)より。
このすぐれた寓話は、ひきこもりを考える際に、きわめて重要ないくつかの示唆をもたらしてくれます。 病理的なひきこもり事例において、欲望が存在するにもかかわらず行為が阻害されるのはなぜか。 それはまず「せき立て」の欠如にもとづくでしょう。 この言い方も、あるいは奇妙に聞こえるかもしれません。 ひきこもりの青年たちは、自分たちが世間から後れをとってしまったことに対して、強い不安と焦燥感を抱えているではないか。 それは「せき立て」とどう違うのか、という疑問もあり得るでしょう。 しかし私の考えでは、焦燥感とせき立てはまったく異なります。 多くの場合、焦燥感は有効な行動につながりにくい。 むしろ焦燥感ゆえに、無為に過ごしてしまうことも珍しいことではありません。 この点が行動を促す力を秘めた「せき立て」ともっとも異なっている点です。
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- 「断言=行為」の主体として屹立することは、自分を有限化することであり、まさに「去勢されること」といえる(去勢は、賭けとして遂行される)。 「断言=行為」を促すせき立てがなければ、去勢されることができない*1。 これだけを見ていると、単なる説教主義と見分けがつきにくい。
人間は去勢されることによって、はじめて他者と関わる必要性を理解するようになります。逆に、人間は去勢されなければ、社会システムに参加することすらできません。これは社会的、文化的要因によって左右されない、すべての人間社会に普遍的な掟ということになります。成熟は断念と喪失の積み重ね、すなわち去勢によって可能となりますが、ここで忘れてならないのは、去勢がまさに他者から強制されなければならないということです。言い換えるなら、みずから望んで去勢されることは不可能なのです。 (斎藤環 『ひきこもり文化論』 p.121)