「自己コントロール感」

プロアナは肯定しつつ、摂食障害は問題ではないとはいえない」(macskaさん)

 わたしの考えでは拒食や過食嘔吐は自己コントロール感を獲得するための行為だけれども、それにより十全感や充実感を得るようになると、依存が生じてしまう。依存は自己コントロール感の低下をもたらすから、さらに拒食や過食嘔吐を続けることによって自己コントロール感を回復しようとするうちに、摂食障害のループに陥るしかない。こうなると、もはやもともとあった不全感とは無関係に拒食や過食嘔吐を続けることが生きる事の中心となってしまう。「十分痩せたからもう止めよう」とはならず極限まで拒食を続けてしまう人は、そういう状況なのではないかと思う。



「自己コントロール感の低下」は、「自分の現実が構成できない」と同じ話かもしれない(参照)。
ひきこもりに特有の自己の実体化(斎藤環)は、自分がバラバラになってしまう恐怖と関係している。実体化と硬直の不自由を極め、その不自由への没頭において、コントロール感を回復すること(それ以外の方法がわからない)*1。 その状態は、自分の現実がうまく構成できる人から見れば、ただ好き放題をしているようにしか見えないが、自分のまとまりを維持できない恐怖を回避していると言うほうが当たっている。
自分の解体が怖く、「不自由という自由を選ぶしかない」という状態は、「揺るぎない内発性で自由に振舞う」というのと、微妙だが、違っている。自由な選択において閉じこもろうとする人は、その状態から自由に抜けられるし、その選択が傷になることはない(すごく楽な状態だろう)。――とはいえ、両者に明白な線引きはできないし、扶養を押し付けられる側にとっては、自分たちの自由が一方的に踏みにじられる状況は、いずれにしても同じといえる。ひきこもる行為は、本人の恐怖感情に、周囲の人間を巻き込んでいる。(逆に言えば、ひきこもるという形でしかマネジメントできない。)


他者に接して関係を維持することは、自分がバラバラに解体され、支配されることを意味する。相手との関係が大事であればあるほど、過剰な適応をやめることができず、わけがわからなくなる。自分を統御する焦点が自分の側にバランスよく維持できないために、かえって依怙地な、自己中心的振る舞いしかできない。▼ハードルは、適応する厳しさを身につけることというよりは、他者に接しても自分を崩壊させずに(その反動として依怙地にもならずに)いることにある。他者と接しても、自分の現実のフレームを柔軟に維持する訓練は、そのまま《交渉》の訓練であり、実地の交渉能力の向上が、終わりのない支援課題になる*2
交渉・契約は、意思表示のつき合わせであり、自分の欲望と他者の欲望とがむき出しで直面してしまう、非常に難易度の高い行為*3。 その終わりのない戦場で自分を維持する苦しみは、社会生活を送ろうとするかぎり、避けることができない(自殺の多くは、交渉・契約関係からの一方的撤退を意味する)。 ひきこもりを続けるためにすら、交渉を必要とする。そうでなければ、本人の行動は、破滅的な不自由さへの没頭において、周囲を抑圧することでしかない。――とはいえ本人は、そもそも交渉主体として破綻している(それ以外にできない)。
考察すべき焦点は、本人を交渉主体にするフレームの作り方にある。そこにこそ、多くの議論と試行錯誤が重ねられる必要がある。





*1:ひきこもりの支援は、「不自由を極めることから抜けられない」という状態から、「不自由さから離脱することもできる」、つまり「自由に振る舞える」ことを目指す。それは、交渉関係(他者との相互的な自由の関係)に、意識レベルでも参入することを意味する。

*2:理不尽なクレーマーになればいいということではない。権利意識ばかりではどうしようもない。そういう意味での他者や周囲との相互性も、《交渉》ということ。

*3:元気な人であっても、その決断によって人生を左右される非常に恐ろしい面を持つ。