ひきうけの二重化

「意識=視覚」での引き受けが強迫化すると、無意識(いつの間にか引き受けられていたもの)がわからなくなり、その場にいる理由が失われる。 そうすると、その「理由のなさ」を穴埋めようとして、視覚化を徹底する自意識がますます暴走する。 「泥沼の再帰性」と言われているのは、(ひきこもりに関連するものとしては、)そういう事情に見える。

 「鏡像段階」に関するラカンの指摘を大幅に改変して言うなら、主体は「視ること−視られること」を通じて二重化される。 どういうことか。 つまり「視られること」を媒介として、主体はまず「見える肉体」と「見えない霊」に二重化されるのだ。 これは視覚的判断が必然的にもたらす効果、あるいは副作用でもある。 「見えるものしか存在しない」という判断は、たんに愚かしい以前に生存をおびやかしかねない。 このとき同時に、視る側も二重化される。 つまり「視る主体」とその背後にある「盲目の主体」である。 見ることによって起こる「分裂」は、ラカンが「外密 extimité」という造語で表現したほどの捻れを秘めてはいるが、ここでは便宜上、単純な二重化の様相のみに注目しておこう。 ここで「肉体−霊」が幽霊を生むとするなら、「視る主体−盲目の主体」はいうまでもなく、意識−無意識に対応するだろう。 こちらはもちろん、ヒステリーの母胎である。
 (斎藤環解離のポップ・スキル』 p.56)

これを受けて言い直せば、――
ひきこもりにおいては、「見る主体(想像界)」が、視界の全体性を維持するために、盲目の主体(無意識=象徴界)を追い詰める。 可視化の努力のみが無内容に暴走し、かろうじて自己の解体を防ぐ。フレームが作れないまま現実に直面して途方に暮れるか、自分を実体化して硬直するか、どっちかしかできない。その硬直の継続は、それ自体が傷になる。再度復帰しようとしても、もうどうしていいやらわからない(年もとっている、スキルもない)。
自己の有限化(賃労働の引き受けなど)には、視覚の全体性を失って他者にまるごと支配され、制御不能になる恐怖がある。他者の要請との関係をバランスよく調整できない(まさに「交渉」ができない)。駆け引きも知らないので、いいように利用される。あいまいな状況をマネジメントするための、「戦略的意識を持続するフレーム」がない。