交渉関係として露呈する「中間」

環境管理と動物化東浩紀)は、交渉という対人要因を免除していく。 それは「人間的」と見える対話や熟慮よりは「生理的反応」を要求するが、《交渉》という要因がなくなることはない。

東浩紀 アニメ誌で、『セーラームーン』の幾原邦彦監督がちょっといいことを言ってたんです。 今の若いやつらはすごく近いことか、すごく遠いことしか分からないと。 自分の恋人との関係か、もしくは宇宙の破滅か、どちらかしか分からなくなっていて、中間がなくなってると言うわけ。 これは確かにそうだと思うんですね。 で、それをどうしようかと本当に思います。 つまりこれだと、ものを作れないわけですよ。 ラカンの用語で言えば想像界現実界しかなくて、象徴界がないって話だから。 ものを作るとか喋るとかってのは、一般的に中間で行われるわけでしょう。 想像界現実界の間にサンボリックな、つまり象徴とか言語を使用してちょっと知的なことまで言ったりということは、全部その間にあることだから。 その間のことがすごく成立しなくなってますよね。
宮台真司 そういうことなんです。 素晴らしい整理です。*1



「ものを作れなくなる」ことは、対人交渉でいえば、臨機応変の対応ができなくなること。 置かれた状況の中で考えるべきことに没頭する前に、メロメロの自意識に舞い戻ってしまう。 それは端的に、「戦術的にバカ」になっている。
去勢のフレームが見えず、「去勢されなければならない」という課題意識のみが暴走する。 自分の存在を管理しつくそうとする*2自意識が、そのまま去勢否認になる。 ▼「泥沼の再帰性」は、視覚優位の自意識として語れるのではないだろうか。
「甘えるな」という説教派は、去勢のフレームが硬直している観念論者といえる(フレーム硬直による去勢否認、勝ちパターンへのしがみつき)。 起きている事態のディテールを尊重する能力がない。 ▼ディテールを尊重する努力は、自己解体的なフレーム作成的な労働のプロセスとして、つまり戦術のリアルタイムな支え抜きとして、実現される。 そのような去勢のデリカシーは、単なる自意識にも、硬直した説教にも無理。


斎藤環は、ひきこもりの親御さんへのアドバイスとして、「意味のない挨拶」か、「オリジナルなメッセージ」のどちらかを目指すよう繰り返し強調している*3。 これはひきこもっている本人に対しても言える。 ▼親が空疎なべき論で説教することも、本人が狂暴な自意識に居直ることも、自分の力でディテールにこだわり、オリジナルなメッセージやリアルタイムの戦況理解を生産することとはかけ離れている*4。 いずれも、戦術的無能力の表現であり、けっきょく本人に不利益をもたらす。
東浩紀は、うしなわれた「中間」を言語・国家・イデオロギーなどとして語るが、ひきこもりの苦痛に即して言えば、交渉関係を営む能力がない*5ことが挙げられる。 「中間」の必要は、交渉関係として露呈する。
規律訓練やパターナリズムを否定することはできても、交渉能力のなさは「それでもいいじゃないか」とは言えない。 人間として生きる限り、交渉関係から逃れられる場所などないから、「交渉できない」とはすなわち本人の不利益であり、交渉できずに生き延びるためには、誰かに無条件に保護されなければならない。
自殺とは、交渉関係からの一方的辞去だ。







*1:宮台真司ダイアローグス〈1〉』 p.421-2

*2:totally manage

*3:講演会やインタビューなど

*4:アドバイスとして、「意味のない挨拶」を出しているところが、ラカニアンかつ臨床家の斎藤環ならではだと思う。 ▼言葉やお互いの存在を、過剰に意味に絡め取ろうとしないこと。 過剰な自意識は、会話と発言のすべてを「意味」に回収する。 苦しくてならない。

*5:cf.「トラブル耐性の低さ