去勢論メモ

  • 私の議論は、「去勢のフレーム形成がうまくいかない」という、そのこと自身を考える自己言及的な作業として、プロセスそのものとして、自己形成している*1。 自分を形成することの困難そのものを扱う形で、去勢のフレームを作っている。 ▼硬直したフレームを踏襲するだけの議論ではダメだと思うが、だからといって、単に「破綻のナルシシズム」に淫するだけではどうしようもない(わけの分からないことを言って何か言った気になるナルシストは、現代思想の周辺にはよく見かける)。 どれだけ説得力のある自己形成を、自分が取り組んでいる現実のディテールに即してできるか。
  • 人間として生きることは、交渉関係に巻き込まれることだと考えれば、一時的にその緊張関係から抜け出る権利は必須といえる。 毎日毎日自分の住む場所を交渉して決めなければならないというのでは生きていけない。 権利とは、時間と空間の空虚な保持。 ▼ただし、その確保自身が交渉の結果。
  • ひきこもりは、交渉関係から(意識の上では)完全に撤退し、元に戻れない状態。 周囲から自分を切断する自意識が暴走している。 ▼適度な交渉関係が、人間にとって最も健康的なのかもしれない。 でも、それはこの世にはあり得ないユートピア。 他者との関係は中庸にとどまってくれない。――と考えるあたりに、私のペシミズムがあるかもしれない。






*1:書きながら、フレームそのものをいじる、フレームが移動する、変化する。そういう形で、書くことを通じて発見がある。(この点について、三脇康生氏との会話が極めて示唆的だった。 記して感謝したい。)