「時間化の不能」としての去勢否認

 ひきこもり状態においては、欲望は維持されますが、行為が阻害されています。 つまり、彼らは無気力ではないが、さまざまな要因によって無為であることを強いられている。 それと同時に、彼らの生活には比喩的な意味において時間が流れることがありません。 ここで指摘する無為と無時間とは、明らかに並行関係にあります。 それは、単に無為であるから時間が流れる感覚がなくなる、ということのみを意味しません。 むしろ、時間が流れることがないために、無為にならざるを得ない、と言うほうが、精神分析的にはより正確かもしれません。 (斎藤環ひきこもり文化論』 p.90、強調は引用者)

ものすごく重要な指摘。
去勢否認が、「解除不能の無時間」として語られている。 無理やり時間化すればいいというのではなく、時間化が「できなくなっている」。 とはいえそれは、本人の恐怖症的な力み(りきみ)と無縁ではない――「本人が望んで」そうなっているのか、「できない」のか(無理に社会参加してもつぶれてしまう)。 自分を無時間に封じ込める圧力に屈する。
自発性は、「無時間の解除」にあたる(時間化としての自由)。 硬直した無時間を解除することができなくなっていて、外部から「時間割」*1を強制しても、内側からの構成との絡み合いにならず、制御不能の恐怖感だけを肥大させる。 「永遠にもっていかれる」*2。 自分を管理しようとしてくる他者(制度)への完全な敗北感。
時間を正当に生きようとすればするほど、自縄自縛になる。 置かれた状況の内的構成の不能として、解離のような状態にある。
これは斎藤の指摘する「実体化」と同じ話。 ひきこもりが周囲に迷惑をかけながら幽閉される、「永遠の現在」。
去勢は、手続きに従った自己解体であり、無時間を解除する(時間化する)プロセスにあたる。 ▼「オブセッションとメタの維持」に対応して、「欲望と交渉関係」が、去勢にまつわるキーワードになる。 それをしばらく考えてみる。



*1:学校や、宿泊型の若者自立塾など

*2:物質を持っていかれるのではなく、制御感覚を。